カミデフウカ(28歳・ペットトリマー6年)
言葉の通じない客の体を、一日に何頭も預かる。預かると言っても、向こうは預けたつもりなどない。連れてこられて、知らない台の上に乗せられただけだ。だから最初にすることは、洗うことでも切ることでもなく、この台は怖くないと、体に思ってもらうことだった。
二〇二〇年、二十二歳でこのサロンに入った。学校でトリミングの基礎は習っていたから、ハサミの動かし方も、シャンプーの順番も、頭では分かっていたつもりだった。けれどいちばん習わなかったのが、爪切りだった。たかが爪、と思っていた。犬の爪を切るなど、専用の爪切りを当てて握るだけではないか、と。
違った。犬の爪切りは、切る技術ではなく、保定の技術だった。保定とは、犬を押さえること。怖がらせず、痛くせず、けれど逃げられない持ち方で、その小さな足を自分の手のひらに収めること。先輩は私の保定を見て、いつもため息をついた。「あんた、押さえてるんじゃなくて、捕まえてる」。捕まえられた犬は、力を抜かない。力を抜かない足の爪は、切れない。
犬の爪の中には、血管が通っている。白い爪なら透けて見えるが、黒い爪はどこまでが血管か分からない。深く切れば血が出て、痛がって、その犬は二度と爪切りを許さなくなる。だから最初の一本を切るまでに、いちばん時間をかける。足を持ち、撫で、また持ち、犬がもう抵抗しても無駄だと諦めるのではなく、この人なら大丈夫だと思うまで、待つ。つぶらな瞳がこちらを見上げて、ようやく信頼を語りはじめる、その瞬間を待つのだ。
ある日、先輩に言われた。「爪を見るな。体の力を見ろ。力が抜けた瞬間に切れ」。それまで私は、爪ばかり見ていた。血管の位置、切る角度、断面。けれど先輩は、犬の体ぜんたいを見ていた。肩の力、後ろ足の踏ん張り、呼吸。力が抜けるのは一瞬で、その一瞬に、迷わず一本を落とす。爪を見ていては、その一瞬に間に合わないのかもしれない。
体を預かっていると、その家の暮らしが読めてくる。耳の後ろに毛玉ができている子がいる。ブラッシング不足だと決めつける人もいるが、たいていは違う。そこを掻く癖があるのだ。痒い理由が、耳の中か、皮膚か、ストレスか。毛玉の位置は、飼い主が気づいていない不調を教えてくれることがある。爪が伸びすぎた子は、散歩が足りない。地面で削れていないからだ。体は、その家の時間の使われ方を、正直に記録している。
仕事には地味な工程がある。肛門腺を絞る。耳の汚れを取る。ドライヤーの音に慣れさせるために、最初は弱い風を遠くから当て、少しずつ近づける。どれも写真には写らないし、飼い主が褒めてくれることもない。けれど、ここを飛ばすと、その子の健康は静かに崩れていく。トリマーは、見た目を整える人だと思われがちだが、本当は、見えないところを整えている人なのだと思う。
仕上がって、飼い主が迎えに来る。「うちの子、暴れませんでした?」と訊かれることが多い。暴れた子でも、私は「暴れた」とは言わない。「最初はちょっと緊張してましたけど、後半はすごく頑張ってくれました」と言う。事実は伝える。けれど、飼い主を責めない言い方で伝える。家での関係を、私の一言で気まずくしてはいけないから。そして最後に、台の上のその子を、一枚撮る。さっぱりした顔の写真。それが、一頭ぶんの仕事を終える、私の儀式だった。
あれから六年。何百頭の爪を切ったか、もう数えていない。トリマーになりたての私は、爪を見ていた。いまの私は、体の力を見ている。力が抜ける一瞬を待てるようになったこと、それが、私をいまの私にしてくれた。今日も台の上で、小さな足が、私の手のひらの中で力を抜く。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。