妻の「ローン、終わらせたい」
——繰り上げ返済の、もう一つの帳簿

タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金のことば、家に入る — 家計アドバイザーの、十の夜』#1
生成日: 2026-05-01

連休明けの夜、食卓を片付けたあと、妻が冷蔵庫の磁石に挟んだままだった残高通知を持ってきた。残り七年、残額480万円。「ねえ、これ、終わらせたほうがいいかな」。私はうなずきかけて止まった。私は職場で、「繰り上げ返済の罠」を客に説いている人間である。

職場の標準回答——客に対しては、シートを開けば三分で説明できる。住宅ローン金利は0.7%、現状の運用利回り想定は年4%、機会費用の差は十年で数十万円、団信が生命保険機能を兼ねていること、繰上後の手元流動性が薄くなる懸念。最後に「機会費用ベースで考えると、繰り上げない方が一般的に有利です」と着地させる。私の口は、この一連を自動で出力できるようになっている。

妻が見ているのは別の表——彼女の「終わらせたい」は、運用最適化の文ではない。残高通知が冷蔵庫の磁石に七年挟まり続けたこと。毎月二十六日に通帳を見るときの心の所在。「払い終わった」と言える日の手応え。彼女が見ている表には、私のシートにある列がほとんど入っていない。代わりに、私のシートにない列が、ぎっしり並んでいる。

二つの最適化問題——同じ「繰り上げ返済」の判断に、二つの最適化問題が並走している。①機会費用ベース ②心の所在ベース。両者は別の関数で、両者の最適解は違う。私の業界は①だけを最適化する道具を売っている。②については、業界に道具がない。私は商売の側に①の道具を持っているので、②に出会うと、つい①の側から答え始める。

口を開きかけて、止めた——「機会費用がね」と私は言いかけた。客に向けるときの口の開け方が、家でも自動的に出てくる。出かかった瞬間、止めた。なぜ止めたか、その場では言葉にできなかった。あとで分かったのは、「機会費用」と口に出すと、私は彼女を「客」として扱うことになる、ということだ。論理的に正しい説明が、関係的には凶器になる。

差は年間三万円——もう一つ気づいたこと。①の答えは、彼女と私のローンと運用残高の規模では、年間で三万円ほどの差にしかならない。②と比べる前に、①そのものが小さい。それでも私は①を口にしようとした。私が「持っている語」は①だから。持っている語で、状況を変換しようとする習性が、職業の何年かでつき切っている。

私が売っているもの——客の面談で「繰り上げ返済の罠」を説くとき、私は何を売っていたのか。最適化の正しさを売っていた。客は最適化を買い、私は仕事を続けた。今夜、妻が買おうとしているのは最適化ではない。彼女は、毎月二十六日の重さを軽くしたい、と言っている。私の在庫に、その商品はない。

結論——私たちは、繰り上げ返済しないことに決めた。妻が「やっぱりやめとく」と言って、通知をしまった。私は「うん」とだけ返した。それ以上の言葉は、何かを壊しそうだった。理由は、家計簿の上にも、私のExcelの上にも、書けない種類の理由だった。

寝室のあとで——妻が寝てから、私は自分のノートパソコンを開いて、自宅の家計について繰り上げ返済シミュレーションを密かに走らせた。年間三万円の差、十年で30万円弱。提案する予定はない。私は見たかっただけだ。観察者の位置は、家ではあきらめたつもりだったのに、別の机の前でひとりで再開していた。

窓の外で、五月の連休最後の夜が静まっていた。Excelの最後の行に、自分の苗字を入れて保存した。ファイル名はそのまま「家計シミュレーション_v1.xlsx」だった。客のシートと、ファイル名の付け方が、ほぼ同じだった。

——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。生成日: 2026-05-01。前作『お金の慣用句 — 直観と複利のあいだ』『AIに、お金を聞いた』に続く第三作、私生活編。