カナモリシュン(48歳・養蜂家26年)
移動養蜂は、夜の仕事だ。蜂は日が沈むと巣に戻る。最後の一匹が巣門をくぐるのを待ってから、私は巣門に栓をする。日没後でなければ、運ぶ蜂が足りない。夜明け前に着いて開けなければ、着いた先で蜂が出られず蒸れる。日没と夜明けのあいだ、その何時間かで何百キロを走る。時間との勝負である。
積み込みは、巣箱を固定することから始まる。蓋を金具で締め、箱と箱のあいだに桟を噛ませ、荷台の上で動かないようロープを掛ける。走行中に一箱でもずれれば、中の巣板が崩れ、蜂が潰れる。それでいて、通気は塞いではいけない。蜂は移動の興奮で熱を出す。密閉すれば、内側から蒸し殺してしまう。締めることと、開けておくこと。その二つを同時にやるのが、積み込みなのだろう。
運ぶのは、振動を嫌う荷だ。だから舗装の継ぎ目のたびに、荷台の蜂のことを思う。私はカーブの手前で速度を落とす。急ブレーキを踏まない。蜂のために安全運転をしているのか、と笑われたこともあるが、本当にそうなのだ。荷台で揺れているのは、私の今年そのものである。
満天の星空の下、私は夜のハイウェイをひた走る。深夜のサービスエリアに入り、荷台に回って、ロープの張りを確かめる。耳を澄ますと、何十箱もの中から、低い、地鳴りのような羽音がひとつに溶けて聞こえてくる。蜂たちは、暗闇の中で、自分たちがどこへ運ばれているのかも知らずに、ただ静かに耐えている。その音を聞いていると、胸が締めつけられるような気持ちになる。
置き場は、行ってから探すものではない。何週間も前から決めておく。地主に頭を下げ、畑の隅や山の縁を借りる。蜜と、ときには手間賃を置く。長年の付き合いの地主なら、電話一本で済む。借りる土地より、貸してくれる人との関係のほうが、よほど長くかかって作るものだ。
もう一つ、頭を下げる相手がいる。先客の養蜂家だ。同じ花を、すでに別の誰かが当てにしていることがある。蜜源には限りがある。近すぎる場所に箱を置けば、互いの蜂が同じ花を奪い合い、両方痩せる。だから、どのくらい離すか、仁義を切る。法律で決まった距離ではない。証文もない。ただ、この稼業に長くいる者どうしの、暗黙の縄張りである。破れば、次の年から花の在りかを誰も教えてくれなくなる。
夜明け前、新しい土地に着く。荷を下ろし、箱を並べ、東の空が白みはじめる頃、巣門の栓を抜く。しばらく、何も出てこない。やがて一匹が、おそるおそる門の縁に立つ。触角を振り、空気を読む。そして、飛び立つ。最初の一匹だ。蜂は十分もあれば、見たことのない土地の地図を作りはじめる。太陽の角度と、匂いと、目印を覚え、巣に戻る道を引く。昨夜まで何百キロも離れた山にいたとは、もう知らぬ顔である。
不思議なのは、これだけ運んでも、蜂にとって巣は一度も動いていないことだ。箱の中の暗闇は、昨日と同じ暗闇だ。巣板の並びも、女王の匂いも、隣にいる仲間も、何ひとつ変わらない。世界のほうが入れ替わったのに、蜂は自分の家が動いたとは思わない。門を開ければ、そこが今日の世界だと信じて出ていく。
花を追って一晩じゅう走り、見知らぬ土地で朝を迎える。この、根を持たない暮らしこそが、二十六年、俺という人間を作ってきたのだ。蜂が新しい地図をすぐに引くように、私もまた、どこへ行っても、すぐにそこを我が家にしてしまう。花を追う暮らしが、俺の人生なのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。