朝の、釜
蒸しと茹での、暗いうちから昼前までのこと

カスガトモエ(47歳・生麩職人25年)

外がまだ青いうちに、店の灯りをつける。空気が澄んで、夜の冷たさが床に残っている。私の一日は、洗いより前、釜に火を入れるところから始まる。生麩屋の朝は早い。だがその早さの中に、二十五年でしか身につかない段取りがある。今朝もまた、暗い厨房で湯を沸かす音を聞いている。

最初にするのは、昨日の生地の確認だ。洗ったグルテンに粉を合わせた生地を、前の晩から冷蔵庫で寝かせてある。引き出して、指で押す。一晩寝た生地は、張りが落ち着いて、押し返しが鈍くなっている。締めすぎた朝の生地は、寝かせるとちょうどよく緩む。緩すぎた生地は、一晩経っても戻らない。だから昨日の手の良し悪しが、今朝の指先に出る。一晩の張りは、昨日の私への採点表だ。

釜と蒸籠の段取りを組む。蒸す麩と茹でる麩を、同じ朝のうちに上げなければならない。火口は三つしかない。一つは蒸籠、一つは茹での大鍋、もう一つは余熱用に空けておく。蒸しは十二分、茹では六分、冷ましに十分。これを頭の中で並べ替えて、どれを先に火にかければ全部が昼前に上がるかを決める。火口の数と時間の組み立て——それが朝のいちばんの仕事かもしれない。

蒸し上がりは、竹串では刺さない。刺せば穴が残るし、串の通りでは中心の火は読めない。私は蒸籠の蓋を開け、麩の表面に指を当てる。指の腹で押して、跳ね返りの張りで中心まで火が通ったかを読む。生煮えの中心は、表面の張りの底にわずかな緩みを残している。火の通った麩は、表面から芯まで一様に押し返してくる。手で読む。それだけだ。

上げた麩は、すぐに水に晒す。蒸したばかりの麩は、釜から出しても中で火が進み続ける。余熱というやつだ。放っておけば、ちょうどで上げたつもりが、火が入りすぎる。冷たい水に取って粗熱を抜き、進もうとする火を止める。水晒しは、ただ冷ますのではない。これ以上進むな、と火に言い聞かせる工程なのだ。止めどきを誤れば、すべてが台無しになる。

冷めた麩を、配達の箱に詰める。料亭は開店前に仕込みを終える。だから私は、店が暖簾を出すより前に届けなければならない。時間との競争だ。箱の底に濡れ布巾を敷き、麩を並べ、上にもう一枚かける。生麩は乾けば表面がひび割れる。濡れ布巾は、届くまでのわずかな時間、麩に湿りを残しておくための、ささやかな保険だ。布巾の湿りが、競争のあいだの命綱になる。

配達から戻ると、店頭を開ける。小売の客が来る。顔ぶれはだいたい決まっている。田楽にするからと、粟麩を一本だけ買っていく常連。法事の供物にと紅白を求める人。観光の途中で珍しがって覗く人。一本だけ買う常連の顔を見ると、ああ今日もこの人の夕餉の片隅に私の麩が乗るのだと思う。朝の早さは、こうして誰かの一日に手渡されていく。

昼前には、その日の分が終わる。釜の火を落とし、蒸籠を洗って伏せ、桶を空にする。午後の厨房は、急に静かになる。朝のあの湯気と段取りの慌ただしさが嘘のように、湿った床だけが残る。生麩屋というのは、午前で一日の山を越えてしまう商売だ。午後の静けさは、早起きの代償であり、褒美でもある。

暗いうちに火を入れ、昼前に火を落とす。その短い午前のあいだに、一晩の張りを読み、火口を組み、手で蒸し上がりを読み、余熱を水で止め、濡れ布巾で湿りを守って届ける。午前で終わる商売が、生麩なのだ。今朝もまた、青い空気の中で湯が沸く音を聞きながら、私は昨日の生地に指を当てている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。