カスガトモエ(47歳・生麩職人25年)
洗いの仕事のあとに、細工の仕事がある。手のひらに残った麩の芯に、今度は色と形を与えていく。日本の四季の美しさを、お椀の中の小さな一片に写し取る——それが細工麩という仕事だ。春は桜、夏は青楓、秋は紅葉、冬は雪輪。季節が変われば、私の手の中の絵も変わる。
色は、練り込みで出す。よもぎで緑、梔子で黄、紅麹で赤。どれも自然のものだから、入れる量で濃さが決まる。紅麹は少しでよく効くので、耳かき一杯ほどを目安に、生地の色を見ながら足していく。入れすぎると毒々しい赤になって、お椀に浮かべたとき品がなくなる。料亭の椀は淡くなければならないから、私はいつも、ほんの少し物足りないくらいで止めるようにしている気がする。
紅葉の一片は、棒に巻いて作る。色の違う生地を何枚も重ね、芯になる棒を中心にして巻き上げていく。葉脈になる筋、葉の縁のぎざぎざ、そういうものを断面に出るように計算して重ねる。巻き終わったものを輪切りにすると、切り口に紅葉が現れる。切っても切っても、同じ紅葉が出てくる。金太郎飴と同じ理屈だ。だから細工麩の設計は、立体ではなく、断面という一枚の絵を考える仕事になる。
注文は、暦より二か月早く来る。料亭の献立は先に決まるから、十月の紅葉は八月のうちに作りはじめる。私の作業場の暦は、いつも世間より二か月先を走っている。夏のさなかに紅葉を巻き、まだ涼しいうちに雪輪の相談を受ける。窓の外の季節と、手の中の季節が、いつもずれている。そのずれに慣れることが、この仕事に馴染むということなのかもしれない。
椀種の大きさには、料理人ごとの好みがある。お椀に浮かべたとき、蓋を取った客の目に最初に入る寸法。薄く作れば上品だが、出汁を吸って崩れやすい。厚くすれば形は保つが、野暮ったく見える。ある料理人は「もう一分薄く」と言い、別の料理人は「それでは頼りない」と言う。同じ紅葉でも、届ける先によって厚さが違う。料理人の数だけ、紅葉の厚みがある。
定番にない注文が来ることもある。先だっては、店の家紋を麩で組めないかと相談された。図案を預かって、どの色の生地を何枚、どう重ねれば、断面にあの紋が出るかを考える。試作を何本も巻いては切り、切っては巻き直す。絵を、麩の層で組み立てる。うまく出たときは、断面の中に小さな絵が立ち上がっていて、自分でも少し見入ってしまう。
難しいのは、蒸し上がりで色が変わることだ。生地のときに見えている色と、蒸したあとの色は違う。緑は沈み、赤はくすみ、黄は少し褪せる。だから生地の段階では、仕上がりより一段濃いめに色を置く。蒸せばちょうどよくなる、その「ずらし」の幅は、数字にはできない。何百回と蒸して、手が覚えた差でしかない。生地の色は、未来の色を逆算したものだ。
細工麩は、お椀の中で主役にはならない。主役は出汁であり、椀種の魚や海老だ。麩はその脇で、季節の便りのように小さく浮かんでいるだけ。それでも、蓋を取った客の目が、まずそこに行く。主役にならない分際で、それでも一瞬だけ目を引く。分際の一片が、細工麩なのだ。私は二十五年、その一片を巻き続けている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。