除籍の、判子
直せませんと書く側の、敗北ではない判断について

カタギリスズ(39歳・図書館の資料修理係12年)

本を直す仕事を十二年続けている。けれど、直す前に、直すか直さないかを決める仕事がある。修理に回ってきた本を作業台に置き、しばらく眺めて、「これは直せます」「これは直せません」と判定する。直せませんと書いた本は、司書の手で除籍され、蔵書から外される。判定を出すのは、いつも私のほうだ。

除籍には基準がある。研修で最初に教わるのもそれだ。背や綴じの傷みは、たいてい直せる。直せないのは、紙そのものが死んでいるときだ。昭和の半ばあたりの本は酸性紙で、年月とともに紙の中で酸が育ち、黄ばみ、ぱりっと割れる。角を曲げただけで欠ける紙は、もう裏打ちの糊にも耐えない。カビの広がった本、水に浸かってページが波打ったまま固まった本も、基準の側にある。

基準は、私を楽にするためにある。直せるか直せないかを、私の気分ではなく紙の状態で決めてくれるからだ。黄ばみの進んだページを窓の光に透かし、爪の先で角をそっと曲げる。さくっと音もなく欠ければ、それで決まる。私は帳簿に「酸化・脆化、修理不能」と書く。書くと、すこし救われる。

けれど、基準では割り切れない一冊が、ときどき作業台にのぼる。去年来たのは、町の古い祭りについて書かれた郷土資料だった。紙はもう茶色く、余白には前の持ち主の鉛筆の書き込みが、行のあいだまでびっしり入っていた。「ここは私の記憶とちがう」「祖父はこう言っていた」。本文より書き込みのほうが多いような本だった。基準で言えば、とうに除籍だった。

私は県内の所蔵検索をかけた。同じ本が、ほかの図書館にあるなら、迷う必要はない。けれど検索の画面には、うちの一冊しか出てこなかった。最後の一部だった。絶版で、もう刷られることはない。この一冊を除籍にすれば、この町でこの本に書き込みを残した誰かの手も、いっしょに消える。基準は正しい。正しいのに、画面の前で手が止まった。

除籍と決まった本には、判子を押す。「除籍」の二文字の判子だ。インクは紫がかった青で、押すたびに、本の見返しの白い紙に、青い影のように沈む。帳簿にも同じ色で日付が並ぶ。私は判子を押す係ではないけれど、押される前の判定を出す係だ。判子の青を見るたびに、あれは私が出した青だと思う。

除籍された本には、行き先がある。年に二度のリサイクル市に並ぶ本には、百円の値札が貼られる。私が直せませんと判じた本が、台に積まれて、市民の手に拾われていく。先日、その台の前を通ったら、いつか除籍に回したはずの一冊が、見知らぬ人の鞄に消えていった。直せないと判じた本が、誰かの本棚で、第二の人生を始めようとしていた。直せなくても、終わりではないのだと、その背中に教わった気がした。

カビた本は、ほかの本にうつさないよう袋に隔離する。波打った本には、乾くまで重しを載せる。それは延命の手当てだ。私は延命の係なのだと思う。延ばせるだけ延ばし、延ばせなくなったら、青い判子のほうへ送り出す。

除籍は敗北ではなく、判断なのだ。直せない本を抱え込むことは、直せる本に手が回らなくなることでもある。何を残し、何を手放すかを決めること——それもまた、本を生かす仕事の一部なのだと、いまでは思う。作業台の重しと、紫がかった青い判子は、今日も静かに私を待っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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