カタギリスズ(39歳・図書館の資料修理係12年)
本を直す仕事を十二年続けている。作業台の上にはいつも、和紙の補修テープと、でんぷん糊を入れた小さな器が置いてある。破れたページは和紙で裏打ちし、外れた背表紙は膠で入れ直す。一日の終わりには指の腹に糊が乾いて、白い膜になっている。
図書館の本は、貸し出されて、返ってくる。その往復のあいだに少しずつ傷んでいく。私の仕事は、傷んだ本を直して、また書架に戻すことだ。直すといっても新品には戻らない。直すというのは、次に傷むまでの時間を、すこし延ばすことなのだと思う。
修理係になったのは二〇一四年の春、二十七歳のときだった。古い書庫はいつも、古い本の匂いに包まれていて、最初の研修はその匂いの中で行われた。先輩が一冊の本を作業台に置いた。背の割れた文庫本で、開いてみると、破れたページのあちこちにセロテープが貼られていた。
テープは黄ばんで、貼られた周りの紙まで茶色く焦げたようになっていた。先輩は言った。「これは利用者の方が、よかれと思って貼ってくださったんでしょうね」。善意の補修だった。けれどテープの糊は、数年かけて紙に染み、紙を黄ばませ、脆くする。直したつもりが、本を傷めていた。テープの糊は本の敵なのだ、と教わった気がする。
その日、和紙とでんぷん糊で破れを直す方法を習った。糊は鍋でゆっくり炊く。炊きすぎると粘りが死ぬ。薄すぎると紙を留められない。和紙は破れの形より少し大きく、手でちぎる。鋏で切るとふちが立って目立つが、手でちぎればふちの繊維がなじむ。先輩の手つきは静かで、迷いがないように見えた。
それから十二年、何百冊も直してきた。直していくうちに、本の傷み方には癖があることに気づいた。よく読まれる本は、まず背が割れる。何度も同じように開かれて、綴じが疲れていくのだろう。児童書は角が傷む。中には、角に小さな歯型のついたものもある。実際に齧る子がいるのだ。料理本は、決まったページに油の染みがある。たぶん、その家でいちばん作られた料理のページなのだと思う。
傷みは、その本がどう読まれたかの記録だった。背の割れ具合で、何度開かれたかがわかる。染みの位置で、どのページが好かれたかがわかる。私は本文を読まないけれど、傷みのほうを読んでいた。修理に回ってくる本の傷み方を見れば、その本が誰かにとってどんな本だったかが、なんとなく伝わってくるような気がした。
もちろん、直せない本もある。傷みすぎて、直すより新しく買い直したほうがいい本は、除籍に回す。その境目を見きわめるのも仕事のうちだ。けれど、傷みが激しいということは、それだけ読まれたということでもある。除籍の判断をするたびに、私はすこし迷う。この傷みを、ただ捨ててしまっていいのだろうか、と。
あの研修の日から十二年、私は本の傷み方の観察者になった。テープを剥がし、和紙を当て、糊を炊く。直すというのは、傷みをなかったことにすることではなく、傷みを抱えたまま、もう少し生きられるようにすることだ。背の割れも、角の歯型も、油の染みも、ぜんぶ、その本が愛された証なのだ。作業台の上の和紙と糊は、今日も静かに私を待っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。