カタオカレン(44歳・スケートリンクの整氷18年)
外が三十四度の日も、氷の下を流れる不凍液はマイナス六度のままだ。冷凍機のダイヤルは、八月も二月も動かさない。外がどれだけ暑くても、氷面の温度は変えない。変わるのは外気との差で、その差を打ち消すために機械が働く時間だけだ。夏の私の仕事は、四十度近い差を、一台の機械にずっと背負わせ続けることだった。
夏の傷は、下からではなく上から来る。湿った外気がリンクに入ると、天井の鉄骨が冷えていて、そこで結露する。梁に並んだ水滴が育って、ぽたりと氷面に落ちる。一滴が落ちた場所だけが溶けて、また凍る。残るのは直径三、四ミリの丸い染み。白っぽい、浅い窪み。エッジの線が引っかき傷なら、これは点で空く傷だ。選手のつけた穴は読めば構成が分かるが、天井の傷は何も語らない。ただ落ちた場所に空くだけの、意味のない傷だ。
だから夏は除湿機を止めない。リンクの裏に四台。空気から絞った水が太いホースを伝って排水溝へ落ちる。私は毎朝その量を見る。冬は一日十リットルほど。八月の蒸す日は四十リットルを超える。同じ建物の同じ空気から、夏はその四倍の水を追い出している。乾いた空気でなければ、天井がまた一滴を育てる。除湿機の運転音と、ホースを伝う水の音。それが夏の朝、いちばん最初に聞く音だ。
冷凍機も夏は止まらない。冬は外が冷えるから、機械は一日のうち何度か休む。低い唸りが、ふっと切れる時間がある。夏はその切れ目がない。私が朝四時にリンクに入ってから夜に出るまで、機械はずっと唸っている。冬の電気代の請求書と夏のそれを並べると、八月は二月の倍を少し超える。氷は無料で凍っているように見えて、夏は冬の倍の値段がついている。請求書の数字が、その月に機械が背負った差の重さだ。
夏休みの午後は混む。初めて滑る子が多い夏の氷は、傷の形が違う。フィギュアの点でも、ホッケーの荒い面でもない。初心者は止まれないから、横向きにエッジを引きずって転ぶ。残るのは浅くて短い線が、向きをばらばらにして無数に走る跡だ。冬の傷は方向が揃っている。みな同じように滑り、同じ場所で跳ぶからだ。夏の傷は揃わない。一日ぶんの転倒の向きが、そのまま氷に散らばっている。
夏も毎朝来るフィギュアの子がいる。シーズンの有無に関係なく、その子の氷は一年中ある。外が三十四度でも、その子の足元はマイナス六度のままだ。私は氷温を変えないから、その子だけは夏も冬も同じ硬さの上に立っている。外で蝉が鳴く朝も、踏み切りの穴は去年の冬と同じ場所に、同じ深さで空く。陸上の選手も夏に来る。氷の上は着地で踏ん張っても足が止まらず、わずかに滑って衝撃を逃がす。だから膝に来ない。走り込みの代わりに、その逃げを買いに来る。
お盆は家族連れがいちばん多い。祖父母に手を引かれた小さな子が、よちよちと降りてくる。何度も転んでは、また立つ。その日の氷に残る線は、浅くて、短くて、向きがばらばらだ。私はその傷を、夜の最終整氷で削る。〇・二ミリ落とせば足りる。深い穴がないぶん、夏の家族連れの後の氷は、削るのが軽い。傷を読む必要のない、ただ消すだけの一周。それはそれで、悪くない。
夜、客が帰ると、私は控室の戸を開ける。外はまだ二十八度ある。氷点下のリンクから一歩出ると、湿った熱が顔に貼りつく。汗が引かないうちに、また氷へ戻る。一日に何度もその境目をまたぐ。八月はそれで二度かぜを引いた。最後の一周を終えて車を降りると、誰もいない氷の上に、天井から落ちた一滴の染みが一つ残っている。私は整氷車を一周だけ余計に回し、その丸い窪みの底まで、〇・二ミリ削って消す。明日の朝、また同じ場所に一滴が落ちると分かっている。外が暑いかぎり、天井は水を作り続ける。