夏の、リンク
外は三十度、中は氷点下の夏

カタオカレン(44歳・スケートリンクの整氷18年)

外が三十度を超える日でも、リンクの氷は四センチのままそこにある。夏も冬も、氷の厚さは変わらない。変わるのは、それを保つために私が払う手間のほうだ。真夏のリンクは、外の世界とまったく逆さまの場所になる。猛暑のただなかに冬がひとつ、ぽつんと閉じ込められているような、不思議な静けさがそこにはあった。

夏の敵は、傷ではなく露だ。外の湿った空気がリンクに入り込むと、天井で冷やされて結露する。鉄骨の梁に水滴がびっしりと並び、やがて育って、ぽたりと氷面に落ちる。落ちた一滴は、その場所だけを溶かして、また凍る。すると氷の表面に、丸い染みのような跡が残る。直径にして数ミリの、白っぽい窪み。私はそれを「天井の傷」と呼んでいる。選手のエッジがつけた傷とは別の、上から降ってくる傷だ。

だから夏は、除湿機を回し続ける。リンクの裏手に大きな除湿機が何台も据えてあって、空気から水を絞り続けている。絞られた水は太いホースを伝って排水溝へ落ちていく。私は朝いちばんにその排水の量を見る。夏のあいだ、バケツに溜める日もあるが、一日で何十リットルにもなる。空気を乾かすというのは、これだけの水を空気から追い出すことなのだと、夏になるたびに思い知らされるような気がする。

冷凍機も、夏は唸る。氷の下を流れる不凍液をマイナスに保つ機械が、リンクの隅でずっと低い音を立てている。冬はその音が時々止まる。外が寒ければ、機械は休める。けれど夏は止まらない。外気との温度差が大きいほど、氷を保つために機械は働き続ける。同じ氷を一日保つのに、夏は冬の何倍も電気を食う。氷は無料で凍っているように見えて、季節によって値段が違う。電気代の請求が来るたびに、私は氷の重さを金額で知る。

夏休みの一般営業は混む。暑さから逃げてきた家族連れで、午後のリンクはいっぱいになる。初めて滑る子が多い夏の氷は、傷の質が変わる。フィギュアの鋭い穴でも、ホッケーの荒いささくれでもない。初心者は、転ぶときに横向きにエッジを引きずる。だから氷の上に、長く浅い線が無数に走る。エッジを立てて止まれない人ほど、面で削る。夏の氷は、冬とは違う削られ方をしているのだった。

夏に来る本気の客もいる。オフシーズンの陸上の選手が、膝に優しいクロストレーニングとして滑りに来る。氷の上は着地の衝撃が逃げるから、走り込みの代わりになるのだという。それから、夏も毎朝来るフィギュアの子。シーズンの有無に関係なく、その子の氷は一年中ある。外で蝉が鳴いていても、その子はマイナス六度の氷の上で、同じ場所に同じ穴を作り続けている。夏も冬も変わらない人が、ここにはいる。

お盆のあいだは、家族連れがいちばん多い。祖父母に手を引かれた小さな子が、よちよちと氷に降りてくる。何度も転んでは笑い、また立つ。その日の氷は傷だらけになるが、私はその傷が嫌いではない。夏の暑い日に、わざわざ冬を選んで来てくれた人たちの跡だからだ。整氷車で消しながら、私はその一日ぶんの笑い声を、氷から拭き取っているような心持ちになる。

夏の私の体は、一日に何度も季節を往復する。氷点下のリンクから外の控室へ出れば、三十度の蒸し暑さが体にまとわりつく。汗が引かないうちにまた氷の中へ戻る。寒暖差で頭が重くなる日もある。夏かぜを引くのはたいてい八月だ。外は真夏、中は真冬。その境目を一日に何度もまたぐうちに、私はいつのまにか、夏という季節を二つ生きているような気分になっていたのかもしれない。

結局、夏も冬も、私のやることは同じだ。傷を見て、何ミリ削って、何ミリ張るか。ただ夏は、上から降る露と、唸り続ける機械と、季節を往復する自分の体が、そこに加わるだけだ。外が暑ければ暑いほど、中の冬を守る手間は増えていく。夏の氷を守ること、それが私の夏なのだ。猛暑の底に冬をひとつ抱えて、私は今年もリンクを回りきる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。