サカモトミユ(学生、放課後の観察者)
八年続けたピアノを辞めたのは、高校一年生の春、部活帰りの水曜日だった。指は黒鍵を辿るたび、腱が軋むようなちいさな抵抗を訴える。練習曲、特にハノンは単なる苦行となり、メトロノームの正確な拍子が、私を静かに責め立てる声に聞こえた。
高校に入ってからは、練習時間がどんどん削られていった。部活、塾、友達とのライン。昔は指が覚え込んでいたはずのパッセージも、すぐに忘れてしまう。新しい曲をもらっても、音符を追うだけで、そこにある感情を拾い上げる気力が湧かない。鍵盤が、ただの固い板に感じられた。
母は食卓で、ワイングラスを傾けながら問うた。「本当にいいの、ここまで続けたのに」。父は競馬新聞の最終レース予想から目を上げず、「ミユが決めたことなら」とだけ言った。二人の言葉に、私の決意が揺らぐことはなかった。この先、私はもう鍵盤に触れない、そう確信した。
最後のレッスン。先生はいつものように楽譜の端に赤いペンで印をつけた。「いつでも戻ってきていいわよ。この部屋のピアノは、いつでもミユを待ってる」。その声は、なぜか耳に響かなかった。教室を出る直前、私はペダルを強く踏み込んだ。埃っぽい空気の中に、かすかに響く金属音が、終止符のように感じられた。
帰り道、ふと考える。もしピアノを続けていたら、今頃、私は地区大会で優賞を獲り、きっと全国大会の舞台に立っていた。音楽科への進学は当然の選択肢となり、キャンパスでは新しい仲間と音楽に没頭していただろう。選ばなかった未来は、なぜか光の粒となってまぶしく瞬いていた。それは、手の届かない場所にある、もうひとつの私の物語だ。電車を降り、家までの道を歩く。ショーウィンドウに映る自分の横顔が、知らない誰かのように見えた。その日の夜、私は無意識にダイニングテーブルの縁を、ピアノの鍵盤を叩くように指でなぞっていた。指先に残る微かな感覚が、やけに生々しい。