キサラギレナ(33歳・水産缶詰工場の品質管理11年)
缶詰の検査には、目で見る検査と、耳で聴く検査がある。打検は耳のほうだ。棒で缶を叩き、返ってくる音だけで中身の異常を聴き分ける。長年その音を磨いてきた打検士の耳は、まさに職人技の結晶だと言ってもいい。最後にものを言うのは、機械ではなく人間の耳なのだと思う。
缶詰がきちんと密封されていれば、中はわずかな真空になっている。中身が詰まり、空気の層が薄く、巻締めが効いている缶を叩くと、澄んだ高い音が返ってくる。逆に、密封が甘かったり、中でガスが出ていたりして真空が崩れた缶は、こもった、濁った音になる。真空の状態が、そのまま音に出るのだ。打検士は、その差を聴いている。
打検棒は、先に小さな金属の玉のついた細い棒だ。打検士はこれを片手に、ラインを流れてくる缶を次々に叩いていく。缶、缶、缶、と一定のリズムで。一日に何千缶。手は機械のように動いているのに、耳だけはずっと起きていて、そのリズムのなかに濁った一音が混じった瞬間、手が止まる。叩く動作と聴く神経が、別々に働いているように見えた。
いまはどこの工場にも自動打検機がある。缶を機械が叩き、マイクが音を拾い、波形を見て弾く。速いし、疲れない。けれど私の工場では、自動打検機を通った缶を、もう一度人が叩く。機械が拾えない、ほんのわずかな音の翳りがあるからだ。機械と人の二段構え。最後の関門は、いつも人の耳のほうに置かれている。
私が打検を教わった日々のことを思い出す。最初は、全部の缶が同じ音にしか聞こえなかった。澄んだ音と濁った音の違いが、頭ではわかっても、耳には届かない。先輩の脇に立って、同じ缶を叩いて、首をかしげる日が続いた。耳が育つには、年月がかかる。一朝一夕には身につかない技術なのだと、痛感した。
あるとき、ラインを流れる缶の列のなかに、ひとつだけ違う音が混じった。叩いた手が、考えるより先に止まっていた。脇に寄せて、ほかの缶ともう一度叩き比べると、やはり濁っている。班長を呼び、ラインを止める判断をした。その釜にさかのぼり、殺菌の記録を見て、巻締めの断面を切って、原因を一つずつつぶしていく。一缶の濁った音が、ラインの一日を遡らせた。
耳は、消耗品でもある。連続して叩きつづけると、澄んだ音と濁った音の境目が、だんだん曖昧になってくる。だから打検には、連続作業時間の決まりがある。一定の時間で交代し、耳を休ませる。最初は、たかが耳に休憩がいるのかと思っていた。けれど、疲れた耳は本当に聞き分けられなくなる。耳もまた、管理すべき道具なのかもしれない。
缶詰は、開けて確かめられない。だから音で聴く。今日叩いた何千缶の音は、三年後にどこかの誰かが開ける一缶につながっている。澄んだ音は流し、濁った音は止める。機械が見落とした最後のひとつを拾うのは、いつも人の耳だ。最後の耳が、缶詰の品質を守っているのだと思う。十一年経って、私はようやく、その耳の入口に立てた気がしている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。