重石の、沈み
蔵に入った年、樽の声を聞くと決まるまで

コゴメタツヤ(53歳・漬物職人31年)

漬物の仕事を三十一年やっている。蔵には大小の樽が並んでいて、それぞれの上に石が載っている。丸い川石もあれば、四角いコンクリートの錘もある。重さは樽によって変える。けれど私たちの仕事は、その石をどう載せるかではない。載せたあと、石がどう沈んでいくかを、ただ見ることだ。

一九九五年、二十二歳の春に、たくあんの蔵元に入った。最初の半年、私は大根を洗い、樽を洗い、ぬかを運ぶだけだった。あるとき親方が、仕込んだばかりの樽の前に私を立たせて言った。「漬物は重石が漬ける。俺らは重石の番人だ。沈み方を見ろ。水が上がる速さが樽の声だ」。それだけだった。私はしばらく、その意味を考えていた。

重石を載せると、大根から水が出る。塩が大根の中の水を引き、その水が樽の底にたまり、やがて大根の上まで上がってくる。水が上がれば、石はその分だけ沈む。だから石の沈みを見れば、樽の中で何が起きているかが分かる。沈みの速い樽は水がよく上がっている。沈まない樽は、何かが滞っている。浸透圧という言葉は、あとから本で知った。蔵では、石が教えてくれた。

樽ごとに進み方は違う。同じ日に、同じ塩で、同じ大根を仕込んでも、奥の樽と手前の樽では沈みが違う。蔵の温度が場所で違うからだろう。親方はそれを「樽にも機嫌がある」と言った。味のある言い方だったと思う。だから私たちは毎朝、樽の列を端から見て回り、どの石がどれだけ沈んだかを覚えていく。覚えるというより、体に入れていく。

仕込みの前に、大根は干す。やぐらに掛けて、寒風に当てて、水を抜く。干し加減は、大根を持って曲げてみて決める。ぴんと張ったままなら、まだ早い。への字に曲がって、根元と先がゆっくり近づくくらいになれば、ちょうどいい。干しすぎると曲がりすぎて筋っぽくなり、干し足らないと折れる。その境目は、指が覚えている。

ぬかは、米ぬかと塩と、昨年のぬかを継いで作る。新しいぬかだけでは味が立たない。去年漬けたぬかを少し入れると、蔵の味がつながっていく。親方の代から継いできたぬかが、いまも樽の底に混じっているのかもしれない。味の連続性、とでも言うのだろうか。蔵の味というのは、たぶんこういうことだと思う。

樽は途中で天地返しをする。上と下を入れ替えて、漬かりむらを直す。重い大根を一本ずつ持ち上げて積み替える、力のいる仕事だ。けれど天地返しは、力だけの仕事ではない。樽を開けたときの香りで、発酵がどこまで進んだかが分かる。つんと立つ酸が早すぎれば温度を下げ、香りが眠っていれば少し待つ。鼻が、石の沈みの続きを読む。

仕込みは冬と決まっている。気温が低いほうが、発酵がゆっくり進むからだ。ゆっくり進めば、味が深くなる前に酸っぱくなりすぎることがない。夏に同じことをすれば、樽はあっという間に走ってしまう。寒さは敵ではなく、時間を緩めてくれる味方だ。冬の蔵は底から冷えて、朝は手がかじかむ。それでも冬に仕込むのには、理由がある。

近ごろは減塩の注文が増えた。昔の塩加減では辛すぎると言われる。塩を減らせば味は現代の好みに近づくが、そのぶん日持ちがしなくなり、樽の進みも速くなる。味と日持ちは天秤だ。どちらかを取れば、どちらかが軽くなる。私はその天秤を、客の顔を思い浮かべながら、毎年少しずつ動かしている。正解があるわけではない。

あれから三十一年。何百の樽の石を、何千回見てきたか、もう数えていない。漬物は手で漬けるものだと思われがちだが、本当は、待つことを決める仕事なのだと、いまでは思う。重石は大根を押さえているのではなく、樽の時間を見えるようにしてくれている。あの春に親方から渡された一言が、樽の声が、俺をいまの俺にしてくれた。今日も蔵の石は、静かに沈んでいる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。