コイブチサラ(27歳・映画館の映写技師5年)
私の仕事場には、客席のいちばん後ろ、いちばん高いところに、小さな窓がいくつも並んでいる。観客はその存在に気づかない。けれどそのガラスの向こうから、銀幕の魔法はすべて投げかけられている。私はその窓の内側で、五年間、映画を観てきた。いや、正確に言えば、観てこなかった。
2021年、私はシネコンの映写部門に配属された。映写技師、と名乗ると、たいていの人はフィルムをくるくる回す古い職人を想像する。でも、いまの映写室にフィルムはほとんどない。私たちが扱うのはDCPという上映データだ。ハードディスクや回線で届いたそれを取り込み、KDMという鍵の有効期限を確認し、スクリーンごとの上映スケジュールに組み込んでいく。映画は、もう、物質ではないのかもしれない。
配属されてすぐの頃、先輩に言われた言葉を、私はいまでも覚えている。「映画を観るな。画面を見ろ。フォーカス、明るさ、音ズレ——お前が観客になったら、誰も見張っていない」。最初は意味がわからなかったと思う。映画館で働きたくてここに来たのに、映画を観るなと言われるなんて。
でも、すぐにわかった。映写室の窓から見えるスクリーンは、観客のそれとは別物なのだ。私が見るのは物語ではない。輝度計の数字が規定の値に収まっているか。画面の四辺がマスキングからはみ出していないか。フォーカスが甘くなっていないか。左の音が、コンマ何秒か遅れていないか。観客が泣いている場面で、私は数字を見ている。観客が笑っている場面で、私はにじんだ画面の端を見ている。
月に一度だけ、この劇場には特別な夜がある。古い35mmフィルムの映写機が一台だけ、いまも生きていて、月一の旧作上映に使われるのだ。先輩がフィルムの掛け方を教えてくれた夜のことは、忘れられない。リールは思っていたよりずっと重くて、フィルムを送り歯にかけるとき、手が震えた。「切れたら、その場で終わりだからな」。先輩はそう言って笑った。デジタルなら巻き戻せる。でもフィルムは、いまここで燃えていく光そのものだった。
トラブルの夜のことも書いておきたい。ある満席の上映の途中、突然、画面が暗転した。サーバーが落ちたのだ。館内に、上映を一時中断する旨のアナウンスが流れる。その数分間の、客席の空気を、私は窓の内側からずっと見ていた。ざわめき、ため息、スマホの光がぽつぽつと灯る。みんな、続きを待っている。あの数分間ほど、観客と自分が一本の糸でつながっていると感じたことはなかったように思う。私は彼らに、光を返さなければならなかった。
映写技師という仕事は、孤独だ。暗い部屋に一人でいて、誰からも見られない。けれど、私が見ていなければ、誰も気づかないまま映画は崩れていく。フォーカスが甘いまま、音がずれたまま、それでも物語は進んでしまう。私は、誰も見張っていないものを見張る人なのだと、いつからか思うようになった。
気づけば五年が経った。私はもう、映画を最初から最後まで「観る」ことが、うまくできない。家でドラマを見ていても、画面の明るさや色味が気になってしまう。職業病だと笑われる。でも、観ないで観ることが、私をいまの私にしてくれたのだと思う。あの小さな窓の内側で、私は観客になることをやめ、観察者になった。スクリーンの裏側にも、たしかに、ひとつの映画がある。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。