漱石『こころ』と SNS の共感ハラスメント(第二稿)
先生の手紙が提起する「理解の暴力」

フジワラレン(研究助手)

『こころ』を読むと、先生は「わかってもらえない人」ではなく、わかり方の順番にうるさい人だと見えてくる。そこを外すと、遺書はただの告白文に縮む。上巻で先生は、私に近づきながら、踏み込み方を細かく制限する。親切に見える場面ほど、その線引きは厳しい。相手を拒むというより、こちらの理解欲を試している。

私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。(漱石『こころ』上「先生と私」)

この言葉は、共感の表明である前に、半歩だけ先に立つ言い方だ。「あなたも」と言われた瞬間、私はまだ自分の淋しさを話していないのに、先生の見立ての中へ入れられる。ここにあるのは暴力という大げさな身ぶりではない。もっと日常的な、しかし逃げ場の少ない先取りだ。SNSでも同じ場面を見る。夜、短く「今日は無理」とだけ書かれた投稿の下に、数分で「わかる」「それ鬱のサインだよ」「休んだ方がいい」が並ぶ。返事をした人は助言したつもりでも、投稿者は自分の一行を説明し直す仕事を背負わされる。書いた本人の曖昧さより、読んだ側の整理の速さが前に出る。

もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。(漱石『こころ』上「先生と私」)

重要なのは「研究的に働き掛けたなら」である。先生が拒むのは質問そのものではない。相手を材料として扱う目つきだ。原因を当て、型に入れ、説明を完成させる目つきである。だから遺書の形式が効く。対話ではなく、一度に渡す長い手紙にしたのは、問答の往復の中で自分が整理されることを嫌ったからだろう。先生は黙っていたのではない。話す権利を最後まで自分の側に置こうとした。その執着は身勝手で、同時に切実でもある。

第一稿では、私はそれをSNS一般の倫理へ急いで回収していた。先生のいやらしさ、自意識の演出、私を試す感じをきれいに削っていた。だが『こころ』の読みに残る棘は、善意の失敗だけでは足りない。わかろうとする側だけでなく、わかられたくないのに相手を惹きつける側の混線まで入っている。そこを見ないと、この小説はただの教訓になる。私自身、引用を並べた瞬間に先生を説明し切った顔になりやすい。遺書が突き返してくるのは、その早さのほうだ。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。