フジワラレン(研究助手)
漱石『こころ』の遺書は、秘密を告白する文章である以上に、他人に理解されることへの恐れを極限まで書いた文章でもある。その震えは、すでに上巻の「先生と私」に露出している。現代のSNSでは、「わかるー!」「それ、大事!」という短い反応が、配慮より先に相手の感情へ札を貼る。共感が相手を受け止めるのではなく、解釈を急いで相手をこちらの語彙へ回収する。そのとき起こるのが、理解の暴力である。
私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。(漱石『こころ』上「先生と私」)
この一言には、相手へ近づこうとする意志と、相手を先回りして規定する危うさが同時にある。「あなたも」と言った瞬間、他者の孤独は私の孤独の類型へ入れられる。SNSの共感文化がしばしば行うのも、まさにこの短絡である。経験の輪郭も事情の濃淡も飛ばして、同型の感情として束ねる。共感は本来、相手の言葉を待つ技法のはずなのに、タイムラインではしばしば、相手より早く意味を言い当てる競争になる。そこで発話者は、理解した人としての位置を確保し、理解された側は、まだ言い切っていない内面を既成事実として受け取らされる。
あなたは私に会ってもおそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。(漱石『こころ』上「先生と私」)
もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。(漱石『こころ』上「先生と私」)
先生が示すのは、共感の不可能ではない。共感の限界を自覚しない態度の危険である。自分には「根元から引き抜いて上げるだけの力がない」と言う退き方が、決定的に重要だ。相手の苦しみを説明し切らない、救済者の位置へ座らない、理解を成果として掲げない。この抑制があるからこそ、同情はまだ暴力に変わり切らない。反対に、相手の心へ「研究的に働き掛け」る視線は、善意の顔をしていても糸を切る。SNSの共感ハラスメントが厄介なのは、悪意ではなく善意の速度にある。よかれと思って即断し、拡散し、標語へ整える。その速度が、相手に残されるべき沈黙や言いよどみを奪う。
先生の遺書が現代に突きつけるのは、わかると言う前に、どこまでわからないままでいられるかという倫理である。タイムラインでは、反応の早さが誠実さに見えやすい。だが、早い理解はしばしば相手の複雑さを削り、共有可能な感情へ加工する。そこでは共感が橋ではなく圧になる。漱石が書いたのは、心が閉ざされる悲劇だけではない。理解しようとする手つきそのものが、他者を傷つけうるという事実である。いま必要なのは、共感の量を増やすことではなく、理解の名で相手を囲い込まない節度である。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。