棚差しと、平積み
文庫担当一年目、棚の前の手を見るようになるまで

コマツナナ(31歳・書店の文庫担当9年)

本に囲まれて暮らしている。毎朝シャッターを上げると、本の海の匂いが店の奥から静かに押し寄せてくる。文庫の担当になって九年、私はこの匂いの中でずっと、棚の前に立つ人の手を見てきた。

本屋には二つの置き方がある。平積みと、棚差し。平積みは表紙を上にして台に積む置き方で、客の目に表紙が飛び込む。棚差しは背表紙だけを見せて棚に挿す置き方で、選ぶには背の文字を読まなければならない。新刊や売れ筋は平積み、それ以外は棚差し。店の中で、平積みから棚差しに移されることは、小さな降格のようなものだ。

担当一年目の春だったと思う。先輩に「この本、平積みから棚差しに下げて」と言われた。半年前に出た文庫で、最初の山は崩れ、補充の発注もここ二月は入れていなかった。私は十冊ほど残っていたその文庫を抱えて、棚の前にしゃがみ、著者名の五十音の場所に背表紙を挿していった。表紙が見えなくなった瞬間、その本が店の景色から消えたような気がした。

ところが、棚差しに下げたその本が、ぽつぽつと売れ続けた。月に一冊か二冊。平積みの台の上で一週間に十冊さばける本の勢いとは、まるで違う時間の流れだった。レジでスリップを抜くたびに、私はその本のスリップを見て、少し不思議な気持ちになった。表紙が見えないのに、誰かが背表紙だけを頼りに、この本を選んで抜いていく。

平積みの本は、回転する。一週間で台の上の顔ぶれが変わり、売れなければ返品の箱に入って、出版社へ戻っていく。けれど棚差しの本には、別の時間が流れていた。背の文字が日に焼けて、うっすら色が褪せていくほどの長さの時間。平積みの寿命は短く、棚差しの寿命は長い。同じ店の中で、二つの時計が違う速さで動いていることを、私はそのとき初めて知ったのかもしれない。

それからの私は、棚の前の手を見るようになった。台の前で表紙をなでて通り過ぎる手。棚差しの背を指でたどって、一冊を半分ほど引き出し、表紙をあらため、また戻す手。とくに、戻す手のほうを、私はよく覚えている。買われた本のことより、手に取られて戻された本のことを。

戻された本は、たいてい、もとの場所にきちんとは戻らない。背の高さがほんの少しだけ前にずれていたり、隣の本との間隔がわずかに空いていたりする。閉店後にその列を直しながら、私はそのずれを見て、ああ、この本は今日、誰かに検討されたのだな、と思う。買われはしなかったけれど、抜かれて、開かれて、考えられて、戻された。そのずれだけが、本が一度は選ばれかけたことの、たった一つの証拠なのだ。

毎月、文庫の新刊が決まった日に入ってくる。発売のパターンは体に染みついていて、何日に何社の新刊が来るか、もう手帳を見なくてもわかる。新刊は平積みになり、やがて棚差しに下がり、何冊かは返品の箱に消え、何冊かは背を焼きながら棚に残る。九年、私はその流れの脇に立って、抜かれては戻される手を見続けてきた。

本を売る仕事だと思われがちだが、本当は、本と人の間に立って、その出会いを見届ける仕事なのかもしれない。あの日、平積みから棚差しに一冊を下げたことが、私をいまの私にしてくれた。今日も棚の前には誰かの手があって、一冊を抜いて、開いて、そっと戻していく。私はその背のずれを、明日の朝そっと直すだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。