子供の、検眼
見えると言ってしまう子の、その奥を測る

コオリヤマミチ(48歳・眼鏡店の検眼士26年)

子供の検眼は、大人の検眼とは別の仕事だ。大人は「楽なほうを選べ」と言えば選んでくれる。子供は、楽がわからない。生まれてからずっとその目で見ているのだから、見えにくいことが本人にとっては普通なのだ。だから子供の前では、私はいつも、答えの出ない問いを抱えながら椅子に座っている。

いちばん難しいのは、「見える」と言ってしまう子だ。視力表のいちばん下を指して、見える?と訊くと、うん、と答える。けれど本当は見えていない。子供の目は調節力が強いから、ピントを自分の力でぐっと引き寄せてしまう。隠れた遠視がそこにある。レンズを当てても、子供の目が勝手に補正してしまって、度数の境目がぼやける。だから子供の「見える」を、私はそのままは信じない。

子供の眼鏡は、私の一存では作れない。強い調節力を薬で休ませて、本当の度数を出す検査は、眼科の仕事だ。私たちは、その処方箋を受け取ってから動く。医療と店の間には、はっきりした線が引かれている。子供の小さな目の未来を守るためには、この線引きを越えてはいけないのだと、私はいつも自分に言い聞かせている。

処方箋を持ってきても、子供は掛けたがらないことが多い。初めての眼鏡を前に、唇を結んで首を横に振る。そんなとき私は、無理に掛けさせない。代わりに、トレイにフレームを五本ほど並べて、好きなのを選んでごらん、と言う。選ぶ、という行為が、子供から拒否の気持ちを少しだけ溶かしてくれるのかもしれない。自分で選んだものは、自分のものになる。掛けてみたくなる。

子供のフレームは、壊れる前提で選ぶ。学校で、走って、転んで、ランドセルの下敷きになる。だから私は、踏んでも折れない弾性素材をすすめる。テンプルがぐにゃりと曲がって、また戻る。後ろにバンドを回して、ずり落ちないようにもする。大人の眼鏡が「合わせる」道具なら、子供の眼鏡は「耐える」道具だ。壊れない設計こそが、子供にとっての優しさなのだと思う。

子供の度は、止まっていない。半年も経てば顔が大きくなり、眼鏡が小さくなる。度数も変わる。だから私は、半年ごとに来てくださいと言う。鼻の上で眼鏡がずり下がっていないか、テンプルが耳を圧していないか。成長する顔に、眼鏡のほうを追いつかせる。子供の検眼は、一度きりの仕事ではなく、半年ごとに続いていく長い付き合いなのだ。

弱視の子の眼鏡は、見るための道具ではなく、治療の道具だ。掛けることそのものが訓練になる。けれどそれを、子供にどう伝えるか。これがいちばん難しいのかもしれない。見えるようにする眼鏡ではなく、目を育てる眼鏡。私は親御さんに、毎日掛けることが薬を飲むのと同じなんです、と説明する。子供の目の力は、いまこの時期にしか育たないのだから。

先日、半年前に初めて眼鏡を作った男の子が、お母さんと一緒に来た。掛けてどう、と訊くと、彼は少し恥ずかしそうに、黒板の字が見える、と言った。後ろの席でも見える、と。私は、そう、よかったね、とだけ言った。子供の感動を、大げさに受け取りすぎないようにしている。私の仕事は、その「見える」を、技術で支えることだから。

大人の検眼は、楽を選ばせればいい。子供の検眼は、楽がわからない相手の、隠れた目を測る仕事だ。見えると言う子の奥の遠視を疑い、眼科と線を引き、選ばせ、壊れない設計を選び、半年ごとに追いかける。やはり、子供の検眼が一番難しいのだ。けれど、いちばん長く付き合える仕事でもある。黒板の字が見えると言った、あの恥ずかしそうな声を、私はきっと長く覚えている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。