コテガワユメ(29歳・遊園地のキャラクターアクター7年)
グリーティングは、しゃがむ仕事だ。前に来た子の足元を見て、膝をつき、指を包む。けれどパレードは、しゃがめない仕事だ。決められたルートを、決められた振り付けで、立ち止まらずに歩き続ける。三十分。一度も止まらない。一人のためにしゃがむことは、もうできない。私の仕事は、ただ手を振り続けることになる。
パレードの三十分は、想像よりずっと grueling だ。フロートに乗る役もあるけれど、私は歩く役のほうが多い。沿道のあいだを、振り付けの通りに進む。右に四歩、客席へ向き直って手を大きく、左に四歩、また向き直る。決まりの順番がある。考えなくても足が動くまで、何度も練習する。考えていたら、間に合わない。三十分のあいだ、私は振り付けという線路の上を走る車両になる。
グリーティングでは、足元しか見えなかった。けれどパレードでは、見えるものが変わる。立ったまま歩くから、視界の斜め下に入ってくるのは、足ではなく——手だ。沿道の、振り返してくる無数の手。柵の上から伸びる手、親に抱かれた子の小さな手、こちらが向いた瞬間にいっせいに上がる手。足は嘘をつかないと教わったけれど、手は、待っている。振り返してほしくて、上がっている。
振り付けは決まっている。けれど決まりの中に、小さな自由がある。首の角度。手を振る大きさ。同じ振り付けでも、首をほんの少しその子のほうへ傾ければ、「あなたに気づいたよ」が届く。手の弧を、ふだんより五センチ大きくすれば、「あなたに向けて振っているよ」になる。柵の前で必死に伸び上がっている小さな手を見つけたら、私はその一拍だけ、首を二度傾ける。誰にも分からない角度で。三十分の中の小さな自由が、私の演技なのだ。
夏のパレードには、給水の段取りがある。出る前に飲みすぎてはいけない。被り物の中では水も飲めないし、途中で抜けることもできないからだ。控え室で、コップ半分だけ。出る三十分前に、それだけ。喉が渇くより、止まれないほうが怖い。そういう体の管理も、七年かけて覚えた言葉のない技術のひとつだと思う。
雨の日は、控え室で判断を待つ。決行か、中止か。衣装を着て、頭部だけ抱えて、スピーカーからの声を待っている。窓の外には冷たい雨が降っていて、控え室には誰も口をきかない静けさが満ちている。中止になれば、沿道で待っている傘の列に、私たちは出ていけない。決行の合図が出るまでの数分は、どの三十分より長い。
ルートの段差は、全部、暗記している。視界が斜め下しかないから、つまずいたら終わりだ。あそこのマンホールの手前で半歩、橋の継ぎ目で爪先を上げる。何度も歩いて、足の裏に覚えさせる。観客は私が地面を見ていないと思っている。実際、見ていない。見ないで歩けるように、体に道を入れてある。手を振りながら、笑っているように全身を保ちながら、足の裏だけが、別の地図を読んでいる。
三十分が終わって、控え室に戻る。頭部を外す。その瞬間、音の洪水が来る。被り物の中は、視界だけでなく、音もこもらせていた。外したとたん、隣の人の息、エアコンの唸り、誰かのペットボトルの蓋が鳴る音、自分の心臓——全部が一度に流れ込んでくる。七年やっても、この瞬間だけは慣れない。世界はずっとこんなにうるさかったのかと、毎回、思い出す。
あれから七年、私は歩き続ける人だ。しゃがめない代わりに、首の角度で気づきを伝える。止まれない代わりに、決まりの中に小さな自由を隠す。沿道のあの無数の手は、きっと、私の振りひとつを覚えてはいないだろう。それでも、誰にも分からない二度の傾きで「あなたに気づいたよ」を渡せたなら、それはきっと、悪くないことなのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。