疑問出しの、敬語
校閲者が誤りを断定しない理由について

コウノアサコ(56歳・出版社校閲部勤務32年)

私たちの部には、間違いを知らせるための言葉遣いがある。鉛筆で欄外に書くとき、私は「誤りです」とは書かない。長い時間をかけて、そう書かないことを覚えてきたのだと思う。

窓の外には秋の柔らかな陽が差し込み、校閲部の机には辞書の頁をめくる音が穏やかに響いていた。新人の頃、私は先輩たちの鉛筆書きを盗み見ては、その言い回しを手帳に写していた。「〜では?」「念のためご確認ください」「揺れあり」。誤りを指す言葉が、どれも誤りを言い切らない形をしていることが、不思議だった。

たとえば一冊の中で、ある頁は「子供」、別の頁は「子ども」と表記が分かれている。私はそこに鉛筆で「揺れあり(P12は『子供』、P45は『子ども』)」と書く。どちらが正しいとは書かない。書くのは、二つが食い違っているという事実だけだ。揃えるかどうかを決めるのは、著者である。

「?」をつけるのは、断定を引き受けないためではない。校閲者にも誤りがありうる、という当たり前のことを、形にしているのだと思う。私が「をつけて、では?」と書くとき、その「?」は、私の知識がここで尽きているかもしれないという告白でもある。著者は私の知らない理由でそう書いたのかもしれない。引用元がもともとそうなのかもしれない。だから訊く。訊くという形でしか、私は誤りに触れられない。

けれど、ここに技術がある。「?」を付けすぎると、指摘の強度が死ぬ。一頁に「では?」が五つも並ぶと、著者はどれも軽く見るようになる。本当に直してほしい一箇所だけは、語尾を変える。「念のため、出典をご確認ください」。疑問符を外し、依頼の形にする。「?」をどこに配り、どこで引っ込めるか。それが、新人の頃にいちばん長くかかって覚えたことだったと思う。

符号もそうだ。「要確認」「出典確認乞う」「ルビママ」。短い言葉ほど、断定しないでいられる。付箋の色も決まっている。赤い付箋は印刷所に関わる事項、黄色は著者に判断を委ねる事項。私は黄色を多く使う校閲者だった。鉛筆の筆圧も、たぶん人より弱かったと思う。強く書けば、消したあとに溝が残る。鉛筆で書くというのは、消しゴムで消せるということだ。撤回できる言葉として、私は疑問を置いていた。

欄外の幅は、たいてい狭い。その狭い余白に、私は敬語を畳んで入れる。「ご確認ください」を「確認乞う」に詰める。詰めても、敬意の角度は変えない。狭いからこそ、言葉を選ぶのだと、いつからか思うようになった。

三十二年、私はほとんど断定をしてこなかったのかもしれない。「誤りです」と書いた記憶は、数えるほどしかない。間違いを知らせる文章を、間違いを断定しない形で書く——それは著者の機嫌を取るためではなかった。私自身が、いつでも間違える側にいるからだった。

鉛筆で書く疑問出しの敬語こそ、この仕事の品格なのだと、いまでは思う。断定しないことは、弱さではない。それは、自分の知に限りがあると知っている者だけがとれる、静かな姿勢なのだ。机の上の鉛筆は、今日も短く削られて、誰かに何かを訊く準備をしている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。