高齢者講習の、午後
十八歳に教える朝と、八十歳の運転を見る午後

クボデラアキ(33歳・自動車教習所の指導員11年)

同じ教習所が、午前と午後で別の顔になる。朝は十八歳がハンドルを握る。まだ何も癖のついていない手だ。午後は七十歳、八十歳がやってくる。高齢者講習という。免許の更新に必要で、罰ではない。私は補助席に座る。午前と同じ右足を、午前と違う気持ちで浮かせている。

窓の外には秋の柔らかな陽が差していて、講習室にはどこか懐かしい時間がゆっくり流れていた。受付に並ぶのは、送迎バスで来た人が多い。停留所からの坂を、杖をつかずに上ってくる人もいれば、手すりを頼る人もいる。教室に入る前から、もう講習は始まっている。歩き方に、その人の今日の調子が出る。

講習は教習ではない。十八歳には「直す」。八十歳には「直さない」。何十年も運転してきた人の癖は、もう直すものではなく、見るものだ。私が補助席でできるのは、止めることと、見ることだけ。教える資格は、私にはもうない。その人のほうが、私より四十年長くハンドルを握ってきたのだから。

認知機能検査の部屋は、コースとは別の棟にある。タブレットに時計の絵を描いてもらったり、さっき見た絵を思い出してもらったりする。私は検査には立ち会わない。判定は数値で出る。私が見るのは、その数値が出たあとの、コースのほうだ。検査の点と、ハンドルの実際は、必ずしも一致しない。点はいいのに走りが危うい人がいる。点は際どいのに、運転は静かに正確な人がいる。

コースを走る数分で、長年の運転の堆積が見える。ある人は、交差点で首を振らない。確認の省略が、四十年かけて習慣になっている。ぶつけずに済んできたのは、たぶん運がよかったからではなく、その人なりの別の感覚で補ってきたからだ。逆に、年齢とともに慎重になった人もいる。一時停止で、必要以上に長く止まる。怖さを知った人の止まり方だ。どちらがいい悪いではない。ただ、出る。

走り終えて車を降りるとき、「まだ大丈夫ですか」と聞かれることがある。これにどう答えるか、講習員には作法がある。判定は検査の数値が出す。私が言えるのは、事実だけだ。「さっきの交差点、左の確認が一度遅れていました」。大丈夫とも、危ないとも、私の口からは言わない。事実を渡して、判断はその人と、その家族に返す。

返納、という言葉を、助手席で口にする人がいる。「もう、返そうかな」。そう言ったあとの数秒の沈黙を、私は何度も助手席で聞いてきた。窓の外を見ている横顔に、私は何も足さない。返納の窓口の案内は、受付に置いてある。手に取るかどうかは、その人が決める。修了証明書だけは、誰にでも渡す。それは、講習を受けた、という事実の紙だ。

講習が終わると、駐車場で家族が待っていることがある。娘さんらしき人が、車を降りてきた父親に「どうでした」と聞く。父親は、少し間を置いて「問題ないって」と言う。私は事実しか言っていないのに、駐車場では、それが「大丈夫」に翻訳されている。送迎バスの乗り降りを手伝いながら、私はその翻訳を、止めない。止めるのも、補助ブレーキの仕事ではない。

運転の始まりに立ち会うのも、終わりに立ち会うのも、指導員の仕事なのだと思う。十八歳の手に最初のハンコを押すのも、八十歳に修了証明書を渡すのも、同じ助手席だ。午前と午後で、私はただ、足を浮かせている。誰かの長い運転の、最後の数分を、見ていてあげられた日は、いい日なのだと思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。