クボデラアキ(33歳・自動車教習所の指導員11年)
雪の朝、教習所は判断から始まる。窓の外には雪が静かに舞い降りていて、コースは白く埋まっている。私たちはまず、外を見る。路上教習を出すか、出さないか。コースをどこまで開けるか。十一年いても、この朝だけは、毎回少し緊張するのかもしれない。
この町は雪国ではない。雪が積もるのは、年に数回だ。だから雪かきの分担は、その都度くじのように決まる。今朝は私が、コースの東側だった。スコップで雪を寄せる。寄せた雪は、コースの隅に山になる。その山のところに、毎回、雪だるまがある。誰が作るのか、私は知らない。朝来ると、もうある。
雪の日のキャンセル率は、いつもより高い。電話が朝から鳴る。「今日はやめておきます」。雪道を運転するのが怖い人ほど、雪の日に来ない。けれど、不思議なことに、雪の日に限って必ず来る顔ぶれがいる。彼らは、教習所までの雪道を、自分で運転して来る。来てしまう人と、来ない人が、雪の日にははっきり分かれるのだと思う。
教習車は、冬はスタッドレスを履いている。それでも雪の日は、トランクにチェーンを積む。雪の上では、教本に書いてある「急ブレーキを避ける」が、文字から体感に変わる。ふだん、教習生は教本の言葉を頭で覚える。雪の日だけは、それを足で覚える。教習中に雪が降るというのは、教習生にとって、籤のようなものだ。当たった子は、運がいい。
滑る路面でのブレーキを、私は隣で経験させる。コースの中に、橋を模した区間がある。橋の上は、いちばん早く凍る。そこで、わざと少し強くブレーキを踏ませてみる。タイヤがロックして、車がすっと前に滑る。教習生が小さく声を上げる。私の右足は、補助ブレーキの上で浮いている。安全な速度で、安全な場所で、滑るとはこういうことか、と分かってもらう。これも、指導員の判断のうちなのだと思う。
もちろん、滑らせるかどうかは、その日の路面と、その子の腕を見て決める。危ないと思えば、やらない。雪の日に何を経験させて、何を経験させないか。そのさじ加減が、たぶんいちばん難しい。雪は、教科書どおりにはいかないものだから。
雪がひどくなると、卒業検定は延期になる。延期の連絡を、私たちは一件ずつ電話でかける。「明日の検定ですが、雪のため、来週に」。受話器の向こうで、少し落胆した声が返ってくることもある。準備していた子ほど、そうだ。雪は、誰かの予定を、こちらの都合で動かしてしまう。それでも、滑る路面で検定をやるわけにはいかない。
雪の朝、私が思うのは、卒業していった子たちのことだ。免許を取って、最初の冬を迎える子。その子が初めて雪道を走るとき、隣に私はいない。補助ブレーキもない。あの日コースの橋の上で滑った感覚を、その子が覚えていてくれたら、と思う。雪の日に隣で経験させたことだけが、隣にいない日のために残る。
雪の日の教習こそ、本当の教習なのだ。晴れた日に直線を走るのは、誰にでもできる。滑る路面で、急がず、慌てず、ブレーキを置きにいく——それを隣で見せられる日は、年に数回しかない。だから私は、雪の朝の判断を、大切にしているのだと思う。コースの隅の雪だるまが、今朝も、こちらを見ている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。