クライショウゴ(57歳・計量士33年)
肉屋の秤も、給油機も、私はこの手で量ってきた。だが病院のはかりは、少し違う重さを持っている。ここで量る体重は、客の損得ではなく、患者の体に入る薬の量を決める土台になるからだ。体重一キロあたり何ミリグラム、という計算の一番下に、私が検査した体重計が置かれている。命を支える数字の根っこに、はかりが一つ立っている。そう思うと、針が止まる一秒の意味が、少しだけ違って感じられた。
朝、検査の予定を組むのは、いつも気を遣う。診療の合間を縫わなければならない。外来の体重計は、患者がひっきりなしに乗る。検査をしたいと言えば、その時間だけ計りが止まる。だから私は診察の谷間、昼の少し前の空いた時間を狙って、分銅の箱を持って待つ。患者の目の前で「このはかり、狂ってますよ」とはやらない。それは病院の側の配慮でもあり、私の側の流儀でもあったのだろう。
外来の体重計に、まず一キロの分銅を載せる。デジタルの表示が、すっと数字を出す。公差を見て、合格なら次へ。だが病院には、立てない人のためのはかりがある。ベッドスケールというものだ。ベッドの脚の下に四つのロードセルを噛ませ、ベッドごと持ち上げて、寝たままの患者の体重を量る。人を乗せたまま量る台を、人が乗っていないところで確かめる。私は規定の分銅を四隅に順に載せ、どの隅に載せても同じ数字が出るかを見ていく。隅で狂えば、寝ている人の重さが傾く。
車椅子ごと量るはかりもある。スロープ付きの大きな台に、車椅子のまま乗ってもらい、あとから車椅子の重さを引く。引き算の前提になる「車椅子の重さ」が狂っていれば、患者の体重も狂う。私はここでも分銅を載せ、引き算の土台のほうを確かめた。立てない人の体重を計る工学は、思っていたよりずっと種類が多い。世の中には、立って乗れる人を前提にしないはかりが、こんなにあるのだと知った。
新生児の体重計は、別の世界だった。グラム単位の世界だ。保育器の中に、小さな受け皿のようなはかりがある。生まれたばかりの子の、何グラム増えた減ったが、その日の処置を左右する。私はここでは小さな分銅を鑷子(せっし)でつまみ、息を詰めて載せた。肉屋で数十グラムを見たあの目を、ここでは一グラム、二グラムの単位まで絞り込む。同じ目で、トラック一台分も、新生児のグラムも見てきたのだと思う。
病院の中には、ほかにも量るものが点在している。点滴の流量を制御するポンプ、薬剤部の天秤。薬剤師が粉薬を量る天秤は、私の分銅の世界に一番近い。ミリグラムの単位で薬を量り、それが患者の体に入っていく。病院という建物を、はかりの見取り図として歩いてみると、いたるところに計量機器が埋まっている。表に出ないだけで、医療はおびただしい数の「正しい量」の上に立っていた。
検査の途中、一人の看護師が声をかけてきた。「これ、ちょっと変な気がして」。外来の体重計を指している。なんとなく、最近の数字がおかしい気がする、という。現場の勘だ。私は分銅を載せた。一キロのところで、針——いまは数字だが——が、わずかに足りないところで止まった。看護師の勘は、当たっていた。数字の答え合わせができた瞬間、彼女は少しほっとした顔をした。勘と数字が一致するというのは、現場にとって、思いのほか大きな安心なのだろう。
退院していく患者は、自分が乗った体重計が、いつ誰に検査されたのかを知らない。だが、はかりの裏には検定シールが貼ってある。次の検査の期限と、検査した者の印。患者が見ることのないその小さなシールが、投薬量の計算の、一番下の土台を裏書きしている。命を支える数字の、さらにその下を支えるのが、計量士の仕事なのだ。
裏のシールが、俺の仕事なのだ。誰も見ない一枚のシールの中に、その日のはかりの正しさが封じてある。三十三年、私は見えない正しさの番をしてきた。病院でも、それは変わらなかったのかもしれない。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。