クレハマドカ(53歳・裁判所速記官31年)
法廷が終わると、私の本当の仕事が始まる。符号で書き取ったテープを、日本語に戻して調書にする。反訳という。打鍵は法廷の中で終わっているのに、調書を作るのはこの机の上だ。聞くのは法廷で、書くのは机で。仕事は二つに割れている。
符号は、打った本人にしか読めない。教科書どおりの符号など、現場では打っていないからだ。急いで打てば組み合わせが崩れ、自分だけに通じる癖が混じる。「だ」の符号の右端を、私はいつも少し流して打つ。他人のテープは反訳できない。三十一年、私は私の癖の混じったテープだけを、読み戻してきた。
厄介なのは、自分の符号が自分でも曖昧になる箇所だ。早口の応酬で、母音の符号がひとつ潰れている。「言った」か「行った」か、テープの上では決まらない。そういうとき、私は符号を読むのをやめて、その瞬間の法廷を思い出す。証人がどちらを向いていたか、弁護士の声が高かったか。記憶の中の空気を検索して、潰れた符号に音を返してやる。
いまは録音がある。曖昧な符号の箇所は、録音を聞き直して確かめる。耳で一度、符号で一度、二重に確認する。便利になったと言うべきなのだろう。けれど録音だけでは、誰がいつ口を挟んだのかが分からない時がある。符号には、私が音を拾った順番が残っている。耳と符号、二つを重ねて、ようやく一文が確定する。
固有名詞は、地獄だ。音は書き取れても、漢字が分からない。「ヤマサキ」が山崎か山﨑か、立の崎か大の﨑か。「コウノ」の河野か高野か。音だけでは一字も確定しない。証人尋問の記録を繰って、起訴状を当たって、それでも分からなければ書記官に確認する。一人の名前のために、半時間が消えることがある。
調書は、一字が事実を変える。「言った」と「言わない」の間に、判決が乗っている。私が母音をひとつ取り違えれば、被告人の答えが反対になる。だから反訳の机では、打鍵の速さは関係ない。速く打てた誇りなど、ここでは一度も役に立たない。要るのは、戻すときの丁寧さだけだ。
罪名と法律用語には、専用の符号を作って引き出しに仕舞ってある。「ホウジョ」「キソジジツ」「ミスイ」。一音ずつ打っていては間に合わない言葉を、一回の打鍵で出せるように、長年かけて短い符号を割り当ててきた。法廷の言葉は、専門語の連なりだ。引き出しが厚いほど、指は楽になる。これだけは、後輩に渡したかった蓄積だった。
正義を支えているのは、こうした記録の正確さなのだと思う。華やかな弁論でも、鋭い尋問でもなく、机の上で一字ずつ戻していく地味な作業が、裁判の土台を作っている。誰にも見られない反訳の時間こそが、調書の信頼を支えているのかもしれない。
速く打てることが速記官の腕だと、若い頃は思っていた。けれど三十一年やってみて分かったのは、調書を作るのは打鍵の速さではなく、戻すときの丁寧さなのだ、ということだった。速く書き取った音を、ゆっくり、正しく戻す。その逆説の中に、私の仕事はずっとあったのだと思う。今日も机の上には、読み戻すのを待っている私の癖が、静かに並んでいる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。