クレハマドカ(53歳・裁判所速記官31年)
裁判所の速記官を三十一年やってきた。指で音を符号に書き取る仕事だが、その指の前にはいつも耳がある。書き取るより先に、聞き分ける。いまでは指よりも、この耳のほうで呼ばれることが増えた。
法廷はたいてい録音される。マイクが拾った音声を、外注の業者が反訳して調書にする。録音反訳という。速記官を新しく採らなくなって、課にいた六人は二人になり、空いた席には別の部署の書類が積まれた。テープではなく、録音データが調書になっていく。
先月、その録音反訳が一枚回ってきた。確認してくれ、という。証人は奄美の人で、地名の「龍郷(たつごう)」を「立つ郷」と二語に割り、別の箇所では「立った、ごう」と聞き取って句点まで打ってあった。マスクの下のくぐもった「つ」が、機械には促音に聞こえたのだ。二人の弁護士が同時に異議を述べた箇所は、片方がまるごと消えて、残った片方が二人ぶんの一文に化けていた。私はその場でその声を聞いていた。消えたのは、若いほうの弁護士の「異議あり」だった。
誰が話しているかを、私は声の高さでは取らない。話し方の癖で取る。あの日の若いほうは、異議の前に必ず半拍、息を吸った。年配のほうは語尾を伸ばさず、置くように切る。録音だけを聞く業者には、声の似た二人の、どちらがどちらか分からなかったのだろう。けれど私は、半拍の息のほうを「若い」と書いた。
法廷には、音の地図がある。証言台のマイクは正面、被告人席は斜め、傍聴席のざわめきはうしろから来る。書類をめくる紙の音は、決まって証言の合間に挟まる。録音には、この地図が雑音として全部入る。どの音がどこから来たかを、現場にいた耳は位置で聞き分ける。だから反訳の傍注に「うしろ・傍聴席の咳」と書ける。データだけを聞く業者は、それを発言と取り違えて、ありもしない相槌を一行打っていた。
聞き返しには作法がある。難聴の証人が、聞こえないまま頷いてしまう。あの傷害の法廷でも、被害者の老人が弁護士の「間違いありませんね」に頷いた。だが直前の問いは否定形だった。私は符号の手を止めず、視線だけ書記官へ上げて、ペン先で証言台を一度指した。書記官が裁判長へ目を送り、裁判長が「もう一度、ゆっくり」と問い直した。尋問は止まらなかった。確認だけが、流れの隙間に差し込まれた。
私の耳も老いた。五十代になって、高い音が前ほど素直に入らない。若い頃なら一度で取れた小声を、いまは二度聞きたくなる。だから卓上スピーカーをやめ、片耳のイヤホンに替えた。話し方の癖を先回りで予測して、半拍の息が来る前に身構える。失った聴力のぶんは、三十一年で覚えた癖の地図が埋める。
龍郷の証人の調書は、私が「龍郷」に直し、消えた「異議あり」を録音の三秒前まで戻して四回聞き、若い弁護士の声だと確かめてから一行を起こした。機械が三秒を空白にし、私の耳がその三秒を埋めた。今日も法廷の隅で、私はうしろの咳と紙の音を地図に置きながら、誰の半拍かを待っている。