「止まれ」を、書く
通学路の交差点で、ひらがなの「とまれ」を流した朝

クリハラダイスケ(42歳・路面標示施工18年)

道路に文字を書いて十八年になる。横断歩道、停止線、そして「止まれ」。誰もが毎日その上を踏んで過ぎていくのに、それを書いている現場を見た人は、たぶんほとんどいない。私たちが書く文字は、読まれることはあっても、見られることはない。読む人はみな、走りながら、視界の隅でそれを通り過ぎていく。

路面の「止まれ」を書くには、型板を使う。文字の形に切り抜いた鉄や樹脂の板を路面に伏せ、その上から二百度の溶融材を流し、板を剝がすと白い文字が残る。一文字が一枚の板ではない。「止」も「ま」も「れ」も、それぞれが二つ三つに分割されていて、私たちはパズルのように順に並べてから流す。流す順番は決まっている。「止」なら、左の縦画から。最初の一画をどこから置くかで、その先の文字全体の通りが決まってしまうからだ。

あの字が縦にひょろ長く間延びして見えるのは、わざとだ。縦横の比率は、だいたい三対一。流し終えた直後、規制帯の内側からしゃがんで正面から見ると、文字は不格好なほど縦に伸びて、まるで失敗作のように見える。けれど、それでいい。正しい見え方は、その場所にはない。運転席の、あの低い視線の高さと、停止線までのあの距離にしか、正しい「止まれ」は立ち上がらないのだ。

型板を伏せれば字が書ける、というほど簡単ではない。路面は平らに見えて、勾配があり、わずかなうねりがある。交差点の手前は水はけのために必ず傾いていて、その傾きの上では型板の縁がどうしても浮く。浮いたところから溶融材が滲んで、文字の角が丸くなる。だから板を押さえる手には、路面が今どう逃げているかを読む感覚が要る。手のひらで板の四隅を順に沈めながら、ここは浮く、ここは効いている、と路面と相談していく。文字は、目ではなく手で書いている。

書道に似ていると言う人がいるが、たぶん違う。書道は、書く人の正面に紙がある。読む人も、たいてい同じ正面からそれを見る。けれど路面の文字は、書く私と読む運転手が、まったく違う角度から同じ字を見ている。私はしゃがんで真上から、運転手は座って斜め前から。その二つの視線の差を、あらかじめ計算して歪ませておく。これは書というより、設計に近いのかもしれない。読み手の位置を、書くより先に決めておく仕事だ。

漢字の「止まれ」を流す現場もあれば、ひらがなの「とまれ」を流す現場もある。通学路は、ひらがなだ。まだ漢字を習っていない子どもにも読めるように、という規則がある。先月の朝、ある小学校の前の交差点で、私はその「とまれ」を流していた。日中の施工で、養生のために三十分ほど車を止めてもらっていた。固まりきるまで、その上を踏ませるわけにはいかない。

養生の時間に、登校の列が来た。黄色い帽子の子どもたちが、規制帯の手前で立ち止まる。先頭の子が、まだ完全には固まっていない私の文字を指さして、声に出して読んだ。「と、ま、れ」。一文字ずつ、たどるように。あとの子も続いて読んだ。私は規制帯の内側で、コテを持ったまま、それを聞いていた。私が型板で割って流した三文字を、子どもが一画ずつ、声で組み立て直していく。書くときに分けた順番と、読むときにたどる順番は、違っていた。

古い「止まれ」は、ふしぎな消え方をする。タイヤの通る轍の二本がまず薄くなり、文字の真ん中だけが先に削れていく。「止」の縦画の下半分が消えると、残った形が「上」に見えてくる。すり減った「上まれ」を、私は何度も見てきた。停止線の手前で、止まれが上まれになっている交差点を、運転手は誰も変だと思わずに通り過ぎていく。読めてしまうからだ。人は、書かれた字ではなく、書かれているはずの字を読んでいる。

あの朝から、私は文字を書くたびに、運転席の高さを思い浮かべるようになった。誰のどの角度のために書くのかで、文字の形は変わる。読み手の位置を想定して書く文字こそが、道路の書なのだと思う。今日もどこかの交差点で、私の流した「止まれ」を、誰かが見もせずに、ただ正しく読んで、止まっていく。それでいい。気づかれずに正しく読まれることが、うまく書けた証なのだから。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。