クロサワリク(45歳・歌舞伎の床山23年)
四十を過ぎて、私にも弟子がついた。弟子が最初に持つのは、頭ではない。櫛だ。使ったあとの櫛の、歯の間に詰まった毛を一本ずつ抜く。それと、鬢付け油の練り。冬の油は指で割れるほど固くなるから、手のひらで温めて潰す。役者の頭に触れるのは、何年も先だ。それまでは櫛と油と、向き合うことになる。
私が弟子入りしたころは、見て覚えろの世界だった。親方は台金を私の手に押しつけて、自分の額の生え際を指でなぞってみせただけだった。いまの私は、手順なら口で言う。元結を切る位置、台金を抜く向き。だが髱の張りが出る角度は、いまも見せるしかない。言葉にした瞬間に、角度が嘘になる。言える部分と、見せるしかない部分。その線は、教える側に立って初めて引けた。
弟子の手には癖がある。櫛を持つとき、小指が立つ。立った小指は櫛先の角度をわずかに狂わせるから、これは直す。だが油を練るとき、左手で受けて右手の付け根で押す、あの押しの強さは直さない。強いなりに、その子の練り上がりが均一だからだ。直す癖と、残す癖。見分けるのは、こちらの目のほうだ。
初めて頭を任せたのは、立ち回りで斬られて死ぬだけの、台詞のない端役だった。出は短く、客の目は主役に行っている。浮いても、引っ込んでから結い直せる。任せると決めた日、私は楽屋の隅に立って、自分の両手をどこに置いていいか分からなかった。鋏も櫛も、弟子の手の中にある。私の指は二十三年で初めて、暇だった。役者が出ていくまで、私はその暇な指を帯に挟んで、生え際を見ないようにしていた。
親方の声を、私はぜんぶ運んでいるわけではない。「役者を待たせるな」は、いまも弟子に言う。これは残す。だが親方が手を上げて教えた、あのやり方は置いてきた。私は手を上げない。台金を箱に詰めるとき和紙の量を選るように、要る言葉だけを次へ送る。何を残して何を置くか。それを決めるのは、結局、櫛の歯に詰まった毛を抜くのと同じ手だ。
私が一本立ちを認められた日、親方は自分の使っていた荒櫛を一枚、私に持たせた。歯が一本欠けた古い櫛で、欠けたところに親方の指の癖が出ていた。新しいのを買え、とは言わなかった。欠けた歯で結うと、そこだけ毛が逃げる。逃げる分を、私はいまも指で押さえる。親方の欠けた歯を、私の指が埋めている。弟子に渡す櫛を、私はまだ選んでいない。
楽屋の隅で、弟子が油を練っている。甘い匂いが、鼻に届く。私の一年目と、同じ匂いだ。