打ち粉の、量(第二稿)
家業一年目、店の声を聞くと決めるまで

クワバラジュン(40歳・製麺所三代目)

製麺所は、店に麺を卸す。客が表で丼を待っているとき、私たちはもう裏口から軽トラに戻っている。打ち粉が床にたまると靴底が滑る。一日が終わると、眉と鼻の頭に粉が白く乗っている。十八年、ずっとそうだ。

生麺は放っておくとくっつく。だから表面に粉をまぶす。これが打ち粉だ。打ち粉は釜に入ると湯に溶け、ゆで湯を濁らせる。スープの澄みを命にしている店ほど、湯の濁りに、つまり打ち粉に厳しかった。

二〇〇八年、二十二歳で家業に入った。父の順路を木箱を積んで覚えているところだった。ある朝、駅裏のラーメン屋に届けたとき、開店前の厨房で寸胴を見ていた主人が、木箱を覗いて言った。「打ち粉、もう少し減らせるか」。私は、はい、と答えた。答えてから、自分が「減らす」の中身を一つも知らないことに気づいた。

帰って父に訊いた。父は順路の帳面を広げた。その店の欄には、加水率と切刃の番手は書いてあったが、打ち粉のことは一文字もなかった。「あの店は前からそうだ」。父はそれだけ言って、翌朝、その店の麺だけ、まぶす手粉を半分にし、残りを小麦でんぷんの打ち粉に替えた。でんぷんの粉は湯に溶けても糊にならず、湯を濁らせにくい。帳面に書いていないことを、父の手は知っていた。

その日、配合表を初めて端から端まで見た。駅裏のあの店は加水三十八パーセント、二十二番の中細。隣町の煮干しの店は加水三十二の二十四番でもっと締まった麺。同じ「中華そば」の看板の裏で、麺は一軒ずつ番手が違っていた。父は同じ麺を一度も打っていなかった。私が継いだのは、一つの麺ではなく、何十軒ぶんの別々の麺だった。

それから、玉数の帳面が私の仕事になった。数字は店の調子を黙って報せる。駅裏のあの店は、ある年から一日百二十玉が八十になり、六十になった。注文の電話の声は最後まで変わらなかった。「いつもの、四十玉で」。それが最後の注文だと、向こうも言わず、私も訊かなかった。木箱を取りに来なくなって、私はその欄に線を引いた。

新しく開ける店は逆だ。試作の麺を何度も打ち直させる。加水を上げてくれ、もう少し細く、いや戻して。あの注文の電話は長い。受話器の向こうで、まだ一玉も売っていない人が、麺の太さに自分の店の未来を賭けている。

父はもういない。帳面に書かれなかった打ち粉の量は、いまは私の手にある。駅裏の麺を打つことは、もうない。それでも私は、手粉を半分にして、でんぷんに替える、あの一手を覚えている。閉じた店の番手と、開ける店の太さ。私が毎朝はかっているのは、グラムと番手の数字でありながら、たぶんそれだけではない。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。