年越しの、麺(第二稿)
大晦日だけ、家庭から注文が入る

クワバラジュン(40歳・製麺所三代目)

うちの帳面は、玉で町を読む。一日に何玉、どの店に。中華麺の玉数が一年の地の声だとすれば、年に一度、その地の声が裏返る日がある。十二月三十一日だ。

三十一日の朝、中華麺の機械を止める。かん水のついた手と台は、そのまま蕎麦に持ち込めない。蕎麦が黄ばむし、つながらない。だから一年に一度しか出さない木鉢を棚の奥から下ろし、水で台を拭き直してから、蕎麦粉八に小麦粉二の二八をつなぐ。中華麺はかん水でぐいと伸びるが、蕎麦は伸ばすそばから切れたがる。同じ作業場で、まったく別の手を使う一日だ。細い切刃に替える。

そして三十一日だけ、裏口ではなく店先に行列ができる。普段、製麺所に一般客は来ない。私たちは店に卸す商売だ。けれどこの日だけ、玉が家庭から直接入る。注文の単位が変わる。「四人家族で四玉、年寄り二人の家は二玉」。普段、駅裏のラーメン屋に届けるのは一日六十玉。それが三十一日は、昼までに店先だけで三百玉を超える。地の声の桁が、この一日だけ跳ねる。

並ぶのは毎年だいたい同じ顔だ。生そばを新聞紙にくるみ、「茹で時間一分半、釜から揚げたらすぐ冷水で締めて」と書いた紙を一枚そえる。年に一度しか会わない人に、口でも念を押す。一分半ですよ、と。相手は「去年も言われた」と笑う。去年も言った。来年も言う。卸先の店に番手を伝えるのと同じ手つきで、私は家庭に茹で時間を伝えている。

夕方、蕎麦粉が尽きる。最後の一枚を切り終えると、店先の紙が一枚だけ残る。表で誰かが「よいお年を」と言って帰る。元日は、三代続けて機械を止める。ただし止める前に、蕎麦を打った機械を念入りに洗う。一本でも蕎麦の粉が残れば、明けてからの中華麺に風味が移る。年に一度、いちばん丁寧に洗うのが、元日前の最後の仕事だ。

一月二日。電話が鳴り出す。うどん屋の注文だ。蕎麦の細い切刃を外し、太い番手に戻す。正月の胃に、蕎麦のあとはうどん——この土地はそういう順で食べる。だから二日のうどんは、頼まれる前から打ち台に粉を振っておく。三が日が終わるころには、玉数はまた中華麺の地の声に戻っている。

父はもういない。けれど蕎麦の木鉢を下ろす場所も、元日前にどこを念入りに洗うかも、父の手から私の手に移っている。中華麺六十玉、店先三百玉、元日ゼロ、二日のうどん。私が毎年はかっているのは玉数の増減だが、その数字を順に並べると、町がいつ家に集まり、いつ休み、いつ胃をいたわるかが、ひとりでに見えてくる。今年も最後の一枚を切り終えて、私は帳面に三百いくつの数字を書き込んだ。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。