本番中の、袖
何も起きないことを待つという仕事

クズマキアオ(34歳・オーケストラの譜面係12年)

本番が始まると、私の仕事はほとんど終わっている。譜面台は立て、楽譜は置いた。あとは袖に立って、何も起きないことを待つだけだ。客席は音楽を聴きにくるが、私は事故を待ちにくる。年に数回、譜面台が倒れ、譜面が落ち、ページが飛ぶ。その数回のために、私は毎晩そこにいる。

袖から見る演奏は、客席から見る演奏とは別物だ。客席からは指揮者の背中しか見えないが、袖からは指揮者の表情が見える。曲がうまく運んでいるときの、あの満たされた横顔。崩れかけたときの、目だけが鋭くなる一瞬。客は音を浴びているが、私は指揮者の顔の裏側を見ている。同じ演奏会の、まったく違う面を。

袖からは奏者の手元もよく見える。とくに譜めくりのタイミング。速い楽章で、左手がぎりぎりまで弾いて、右手がふっとページの端へ伸びる。あの一瞬、音楽はわずかに薄くなる。客席には届かないほどの薄さだが、私には見える。私が前もって台紙を組み直し、めくる切れ目を休符へ寄せておくのは、この一瞬を守るためだ。うまくいけば、誰も気づかない。

楽章と楽章のあいだには、静けさにも種類がある。次が静かに始まる曲の前の、息をひそめた静けさ。次が爆発する曲の前の、張り詰めた静けさ。そのあいだに、客席で咳が起きる。咳は、その夜のホールの体温のようなものだ。袖で聴いていると、咳の多い夜と少ない夜があるのが分かる。音楽の感動が、その静けさを支配しているのだ。

一度だけ、本番で譜面が床に落ちたことがある。第二ヴァイオリンの最後列、めくった一枚が風で滑った。私はとっさに動こうとして、止まった。判断の基準はひとつ、曲が止まるか止まらないかだ。奏者は隣の譜面を覗いて弾き続けていた。曲は止まらない。だから私は出ない。落ちた紙はそのまま、楽章が終わるまで床にあった。出るか出ないかの一瞬の判断こそ、私のいちばん難しい仕事なのかもしれない。

出るとき、譜面係には作法がある。音を立てない靴で、最短の動線で、お辞儀はしない。客席に向かって頭を下げれば、そこに私という存在が生まれてしまう。譜面係は存在してはいけない。拾って、置いて、また袖へ戻る。そのあいだ、客のだれも私を見なかったなら、それが成功だ。あの一度、私が床の紙を拾いに出た夜も、翌日のだれの感想にも私は出てこなかった。

休憩中はホールが明るくなり、私は舞台へ出て譜面台の高さを直す。後半でチェロが一人増えるなら、その分の台と椅子を出す。指揮者が高い台を好む人なら、譜面台を少し上げておく。客がロビーで飲み物を持っているあいだ、舞台の上では物の配置が静かに組み替えられている。音楽の物は、全部こちらに来る。

本番のいちばん最後の仕事は、アンコールの譜面の仕込みだ。出すか出さないかは、最後まで分からない。客の拍手の長さ、指揮者の腕の上がり方で決まる。だから私は、アンコール用の譜面を袖に用意したまま、最後まで待つ。拍手が続けば出し、すぐ鳴りやめば仕込んだまま回収する。仕込んだものが日の目を見ないこともある。それでも私は毎回、仕込む。

終演後、私は決まった順番で回収する。指揮者の総譜から、コンサートマスターのパート譜、それから外側へ。客のいないホールで譜面を集めていると、ついさっきまでここに満ちていた音楽が、嘘のように消えている。残るのは紙だけだ。何も起きないことが、私の本番なのだ。事故が起きなかった夜こそ、私がいちばん仕事をした夜なのだと、いまでは思っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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