クズリュウガク(53歳・シールド掘進オペレーター29年)
地下を掘る機械の操縦席に、二十九年座ってきた。シールド工法という。円筒形の掘進機で土を削り、後ろでセグメント——コンクリートの輪——を一周ずつ組みながら、町の下を進んでいく。地上を歩く人は、足の下を機械が通っていることに、たぶん一生気づかない。それでいい。気づかれないのが、うまくいったということだ。
入社一年目、まだ操縦桿に触らせてもらえなかった頃のことだ。先輩のオペレーターの後ろに立って、ただ計器の列を眺めていた。先輩はモニターから目を離さずに言った。「シールドは目隠しで進む船だ。前は見えない。計器と土が全部だ」。地下の戦士のような、暗くて孤独な仕事——そんなふうに思っていた自分が、少し恥ずかしくなった気がした。
切羽——掘削していくいちばん前の面——は、当たり前だが見えない。土と機械の壁の向こうにある。ではどうやって前を知るのか。土圧の計器の針、一分あたりに出てくる土の量、ジャッキの推力の数字。その三つで、まだ見ていない前方の土を読む。針が予定より上を指せば、前の土が硬いか、水を含んでいるか。掘る前に、数字のほうが先に教えてくれる。
操作室には、モニターが横一列に並んでいた。そのうちの一つが、線形管理の画面だった。計画線——本来通るべき一本の線——から、いま機械がどれだけずれているかを、ミリ単位で示す。トンネルは、まっすぐに見えてまっすぐではない。許されるずれは、わずかしかない。ずれたら、何百本もあるジャッキの押す力を、ほんの少しだけ偏らせて、戻していく。ハンドルを切るのではなく、押す力を傾ける。それが、操縦だった。
けれど、計器より先に前を教えてくれるものが、もう一つあった。土だ。掘った土はベルトコンベアで後ろへ運ばれ、操作室の脇を流れていく。私は一年目、その流れる土ばかり見ていた。色が変わる。匂いが変わる。さっきまで茶色だった土が、急に青みがかった灰色になると、その何メートルか先で、計器の針もやっと動きはじめる。土は、計器より正直だったのかもしれない。
そして、忘れてはならない計器がもう一つあった。沈下計だ。私たちが掘り進む真上には、人の住む家が並んでいる。地下を抜けば、その分だけ地面はわずかに沈もうとする。沈下計の数字が、許される範囲を一つでも超えれば、家のどこかに罅が入るということだ。掘る速さも、土圧も、その数字を見ながら決める。前を読むというのは、結局、頭の上の暮らしを壊さないために読むのだということを、その頃に知った。
一日の終わりに、セグメントのリングを一周組む。コンクリートの輪を、いくつかに分けたピースを順番に据えて、ボルトで締め、円を閉じる。最後の一片——キーと呼ばれる楔形の一枚——が、隙間に滑り込んで輪が閉じた瞬間の、あの音とも振動ともつかない手応えは、文章では伝えきれないものだと思う。今日のぶん、町の下に一輪、確かに通した。その実感だけが、見えない仕事の、見える証だった。
何年か経って、初めて貫通の日に立ち会った。反対側から掘ってきたもう一台のトンネルと、地中で出会う日だ。互いに見えないまま、別々の測量を信じて掘ってきた二本が、最後にどれだけ合うか。壁が抜けて、向こうの光が見えたとき、二本の中心の誤差は、数センチだった。何キロも見えない土を掘ってきて、数センチ。涙が出そうになるのを、ぐっとこらえた。感動を、感傷にしてはいけないと思った。これは測量の答え合わせであって、物語ではないのだから。
あれから二十九年。私はずっと、見えない前方の観察者だった。針と、土の色と、頭の上の数字を読んで、まだ見ていないものを読み続けてきた。前が見えないことを、私は不幸だとは思わなかった。見えないからこそ、人は計器を信じ、土を信じ、誤差に頭を下げる。あの一年目に聞いた「計器と土が全部だ」という言葉が、見えない前方こそが、いまの私をつくってくれたのだと思う。今日も操縦席で、私は針を見ている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。