「既読が三時間ついたままの夜」の背後には、ネットワーク工学の概念がある。メッセージを送ってから応答が返ってくるまでの時間をレイテンシと呼ぶ。ネットワークの設計では重要な性能指標だが、人と人のメッセージ交換においても、レイテンシの分布は関係性のかたちを描き出す。
ネットワーク通信のレイテンシ(応答時間)は、物理的な距離・経路の混雑・サーバの処理速度の総和で決まる。東京とサンフランシスコのpingが約100ミリ秒、衛星経由なら数百ミリ秒、LANなら1ミリ秒以下。RTT(Round Trip Time)として測定され、ネットワーク設計の中心指標の一つである。
応答時間の長さは、回線そのものの物理的特性だけでなく、相手のシステムの優先順位設定も反映する。返信が遅い、というだけで、相手のシステムでこちらが低優先度に置かれていることが分かる。
本作で、ミユが好きな男の子にLINEを送る。三分で既読、その後三時間返信なし。翌朝、「ごめん寝てた、12ページから」。ミユは『普段は数秒で返してくる』と思う。返信時間の分布が、普段と今夜で異なっている。
別の友達からは三秒で返ってくる、別の友達からは半日かかる、別の先生からは絶対に返ってこない。それぞれの相手は、ミユからの送信を、それぞれの優先度キューに入れている。応答時間の分布は、関係性の中でミユがどの優先度に置かれているかを正直に示している。
レイテンシの読み解きには注意がいる。返信が遅い理由は複数ある——本当に忙しい、本当に寝ていた、考えて返したい、返したくない、相手の事情。一回の遅延からは何も読めない。重要なのは、長期間の分布である。
普段は数秒で返してくる相手の、今夜の三時間。これは異常値である。通常分布の外にある一点が、何かを語っている。ミユが翌朝に「ごめん寝てた」を受け取った時、彼女はまだその「何か」を読み取れない。返信時間の分布だけでは、相手の心は読めないが、相手の関心の強さは、長期的にはある程度わかる。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。本作はそれらに続く一本である。シリーズ全作(28本)のリストは カテゴリM から。