ドックの、夏
船が浮かばない数週間に、私は船の底を見た

マチダリツ(49歳・フェリーの機関士19年)

年に一度、夏のはじめに、船はドックに入る。海から陸へ上がる、人間でいえば年に一度の健康診断のようなものだ。普段は休みなく海を渡っている船が、数週間、ぴたりと止まる。客を乗せない船は、ただの大きな鉄の塊で、どこか所在なさげに見える、ように思う。

上架というのは、船をそのまま陸に揚げる作業だ。盤木という台木の上に、何千トンもの船体が、ゆっくりと載せられていく。揚がりきると、私たちは初めて船の底を見上げることになる。十九年乗ってきて、いちばん長く付き合っている相手なのに、その足の裏を見るのは年に一度だけだ。船もまた、私たちに見られて少し恥ずかしいのかもしれない。

船底は、貝と海藻だらけだった。普段は海の中にある面だから、フジツボや藻が、びっしりと張りついている。それを高圧の水で剥ぎ落としていくと、下から元のペンキが出てくる。剥がれて錆の浮いたところもある。海の中で、船はこんなにも生き物に住まれていたのか、と毎年思う。きれいに洗われた鉄の肌に、新しいペンキが塗られていくのを見るのは、なんとなく気持ちのいいものだ。

ドックの目玉は、主機関の分解整備だ。普段は轟音をたてて回っているシリンダーから、ピストンを抜く。これが大仕事で、クレーンを使い、何人もかかって、一本ずつ引き上げていく。抜かれたピストンが宙に吊られているのを見ると、心臓を取り出された人間を見ているような、不思議な気持ちになる。動いているときには決して見られない、内臓のような部品たちだ。

抜いた部品は、摩耗を測る。シリンダーの内壁の直径を、何箇所も測って、一年でどれだけ減ったかを記録する。マイクロメーターやシリンダーゲージで、コンマ何ミリの世界を読む。鉄が、一年でほんのわずかに痩せている。その数字を見ると、この一年、船がどれだけ働いたのかが伝わってくるようだった。機械にも、年輪のようなものがあるのかもしれない。

検査には、検査官が立ち会う。船級協会の人で、私たちが開けた機関を、横から覗き込み、測定値を確かめていく。彼らの判子がなければ、船は海に戻れない。立ち会いの日は、機関部全体がぴりっとする。普段は気心の知れた仲間内の仕事が、その日だけは、外の目にさらされるからだ。

ドックのあいだ、乗組員は陸のホテルで暮らす。船という職場が止まっているので、近くのビジネスホテルに数週間、缶詰めになる。ベッドは揺れないし、シャワーの湯はいくらでも出る。けれど、最初の数日は、なんだか落ち着かない。あの振動と唸りが、いつのまにか私の眠りの一部になっていたのだと、陸の静けさの中で気づかされる。船に戻る日の朝は、なぜか少し嬉しい。

私の船が休んでいるあいだも、航路は止められない。代わりの船が入って、客を運び続けている。自分の船がドックにいると、ふと、海の上を行くあの航路のことを思う。誰かが私たちの留守を埋めてくれているおかげで、私たちは安心して船の底を開けていられるのだ。海の仕事は、一隻では回らない。

ドックが明けると、試運転がある。直した機関に、全力運転をさせる試験だ。岸壁を離れ、沖で、エンジンを目いっぱい回す。一年ぶりに整備された心臓が、全力で脈打つ。計器の針が、どれも気持ちよく定位置に収まっているのを見ると、答え合わせに合格したような、ほっとした気持ちになる。新しいペンキの色で、船はまた海に出ていく。ドックという数週間が、船の一年を支えているのだと、私はあらためて思った。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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