マキノトモエ(49歳・ホテル客室清掃員22年)
チェックアウトの済んだ部屋に入って、最初に見るのはテーブルの上だ。次にゴミ箱の中。残された物は、その二か所のどちらにあるかで、行き先が変わる。ゴミ箱の中にある物は、ゴミ。外にある物は、忘れ物。判定の線は、ゴミ箱の縁の高さにある。それだけの規則で、二十二年やってきた。
忘れ物は手が早い。充電器、ネクタイ、ベッドサイドの眼鏡。客室備品リストにない、ホテルの物でない、ゴミ箱の外にある。三つ揃えば忘れ物だ。私はフロントに内線を入れる。「七階、忘れ物です」。カートには忘れ物タグの束がある。部屋番号、品名、拾った時刻。三つの欄を埋めて物に巻けば、それは次に、客の手元へ戻っていく物になる。
もう一つ、廃棄記録という帳簿もカートに載っている。こちらは捨てる物を書く。客の私物で、ホテルの備品でなく、明らかに値打ちのない物。書いて、ゴミ袋に落とす。同じ部屋の同じテーブルから出た物が、忘れ物タグに書かれれば客へ戻り、廃棄記録に書かれれば消える。二つの帳簿は、カートの同じ段に並んでいる。
その朝、テーブルの真ん中に文庫本が一冊あった。表紙を上にして置いてあった。背表紙は日に焼けて、白っぽくなっていた。題は『海辺のカフカ』、下巻。カバーには何度も開いた折り目があって、栞は挟まっていなかった。ゴミ箱は空だった。客はこの本を、ゴミ箱に入れなかった。入れずに、テーブルの真ん中に、表紙を上にして置いた。
規則の上では、これは廃棄だ。ゴミ箱の外にあっても、読み終えた文庫の下巻を忘れ物としてフロントに上げることはない。値打ちのない、客の私物。廃棄記録に「文庫本一冊」と書いて、ゴミ袋に落とす。手が覚えている動きだ。
私は本を手に取った。廃棄記録のペンを握ったまま、もう片方の手で本を持っていた。ペンを持つ手が、一度、忘れ物タグの束のほうへ動いた。品名の欄に「文庫本」と書きかけて、止まった。忘れ物タグは、客の手元へ戻すための紙だ。表紙を上にして置いていった客は、これを取りに戻らない。戻らない物に、戻すための紙は巻けない。ペンの先が、タグの上で乾いていった。
私はペンを廃棄記録のほうへ戻して、「文庫本一冊」と書いた。本をゴミ袋に落とした。表紙が上だったか下だったかは、袋の中ではもう分からない。テーブルを拭き、ゴミ箱を空のまま新しい袋に替え、掃除機をかける。三時には次の客が入る。次の客は、テーブルの真ん中に本が一冊あったことを知らない。
二十二年、私は数えきれない部屋をなかったことにしてきた。捨てた物は覚えていない。覚えているのは、廃棄記録に字を書く前に、ペンがいちど忘れ物タグのほうへ動いた、あの数秒だ。テーブルの真ん中に、表紙を上にして置かれていた。下巻だった。それだけを、私は今日も覚えている。