ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
明治の刊行広告と Amazon の本ページは、どちらも本の中身だけを売っていない。売っているのは、読み終えたあとに自分がどう見えるかという像である。ここを外すと比較は痩せる。新聞の小さな広告枠にも、いまの画面の星評価にも、本文の外側に読者の顔を先に描く手つきがある。
明治の広告はまず配置が強い。罫線で囲った細い枠の中に、「新刊」「快著」「家庭必備」と太い活字が先に立ち、書名はその下に押し込まれる。著者名の脇には肩書が付き、末尾には判型や定価がぶら下がる。三十五銭の本を知らせる欄なのに、値段より先に家の空気が売られている。読めばためになる、では遅い。卓上に置けば家の会話が上等になる、子弟の志が起きる、そういう順番で話が進む。広告主はずいぶん横柄だが、責任の所在ははっきりしている。出版社が自分の名で、あなたはこれを備える家だと言い切る。
「誤字が数か所ある」「紙が白すぎて目が滑る」「第3章だけで元が取れた」「配送箱が大きすぎる」
Amazon の本ページで目に入るのは、こうした細片である。星の平均が 4.4、レビュー件数が 800 を超え、上位には五つ星と一つ星が交互に並ぶ。ここでは出版社の大言壮語より、購入者の不平と興奮が前面に出る。しかも細部は細部のままでは終わらない。「誤字があるのに勧めたい」「装丁は安いが内容は濃い」というねじれが、その本の空気を作る。生活感の勝利ではない。生活感を材料にした推薦の劇場が、画面の上で休みなく回っている。
第一稿では、昔は高く持ち上げ、今は身近に寄せる、ときれいに並べすぎた。実際には逆流がある。明治の広告にも実用の匂いは濃いし、Amazon のレビューにも見栄は混じる。「この一冊で会議の見え方が変わった」「新入社員に配った」といった書き込みは、使用感の報告であると同時に、読む自分の格をそっと陳列している。差は高度ではない。差は署名だ。明治は一つの社名が未来像を押し売りした。Amazon ではその仕事を、レビュー投稿者、星の平均、並べ替えの仕様、そして『この商品を買った人は…』の導線が分担する。
だから現代の本ページは民主化された広告欄、とは言えない。誰でも語れるように見えて、実際に前へ出る文は選別される。役に立った票の多い順、購入者マーク、上位レビュー、短い要約。声は散っているのに、見える顔つきはよく似てくる。私はここに、明治広告より厄介なものを見る。昔の誇張は鼻につく代わりに、誰が盛っているかが明白だった。いまの未来像は、複数の小声に分解されて流通する。そのぶん疑いにくい。責任は拡散し、効き目だけが残る。 本を買う場は前より静かだが、静かな場所ほど、読者の自画像はよく売れる。