メイリン(リンメイファの妹、22歳、台湾出身)
台北から東京へ来て三日目の朝、メイリンは一人で目覚めた。姉のメイファは料理教室の準備で家を出ていた。カーテンの隙間からは、隣のビルの壁が灰色にそびえるのが見えた。普段なら姉の賑やかな声がするはずだが、今朝は静寂だけが部屋に満ちている。
ゆっくりと身支度を整え、ショルダーバッグを肩にかけた。前日の夜、姉が書いてくれた紙片を、ポケットに入れる。「めぐろ → しぶや 一五〇円」と、姉の筆圧の強いボールペンの字で書かれていた。玄関のドアノブを回す。東京の朝の空気は、台北の湿度とは違う、乾いた冷たさだ。大通りにはスーツ姿の男女が吸い込まれるように歩いている。見慣れない漢字と片仮名の看板が雑然と並ぶ街並みを、少しだけ首をすぼめて歩き出した。
目黒駅の改札に着いた。まずは切符を買う。しかし、目の前の券売機は、巨大な壁のようだった。全面タッチパネルの液晶には、赤、青、緑の路線図が絡み合い、小さな漢字とひらがなの駅名がぎっしり並んでいる。どこに触れればいいのか、右も左もわからない。千円札の投入口を探すが、それすら見つけられない。背後から、通勤客の足音が段々と近づく。焦りで、手のひらが汗ばんだ。
その戸惑いの数秒が、永遠にも感じられた。肩越しに、細い指がすっと伸びてきた。指は無言で、券売機の下部にある、五百円玉サイズの銀色のコイン投入口をトントンと叩く。振り向くと、白髪交じりの女性が立っていた。彼女の顔に感情は読み取れない。ただ、そこにいた。
メイリンは慌てて財布から五百円玉を取り出し、示された投入口へ滑り込ませた。カチャリ、と硬貨が吸い込まれる音。女性は次に、券売機の画面の左下、運賃の数字が並んでいる一帯を、指で輪を描くように示した。メイリンはポケットから紙片を出して、画面の中の「150」の数字を探した。あった。ボタンを押した。機械がゴトンと震え、一枚の切符が排出される。メイリンはそれを掴み取り、反射的に「すみません」と呟いた。感謝の言葉は、それしかなかった。
女性は何も言わず、既に自分の切符を買い始めていた。メイリンは頭を下げ、足早に改札を抜けた。地下鉄の車内は、既に人で埋まっている。揺れる車両の中で、メイリンは自分の切符を握りしめた。これは私の切符だ。
夕方、メイファが料理教室から帰宅した。台所で野菜を切りながら、メイリンは今日の出来事を報告した。「今日、切符を買ったの」。メイファはまな板から視線を上げず、短く応じた。「あらそう」。その声は、いつもと変わらない。メイリンはただ、その言葉を受け止めた。