メイリン(リンメイファの妹、22歳、台湾出身)
夢の中で、メイリンは改札の前に立っていた。半年前の目黒の券売機だった。赤と青と緑の路線図が、夢の中では一本の線にほどけていて、五百円玉の投入口だけが、はっきりと銀色に光っていた。隣で、誰かが切符を落とした。メイリンはそれを拾って、差し出した。
口から出たのは「すみません」ではなかった。「ありがとうございます」と、夢の中の自分は言っていた。そこで目が覚めた。半年前のあの朝、本物の券売機の前で、切符を掴んで呟いたのは「すみません」だった。あのときは、それしか出てこなかった。
台所から、味噌汁の匂いがした。台北の家の朝は、豆乳と油条の匂いだった。いまは、味噌の匂いで目が覚める。姉のメイファが、もう起きていた。
夢の話をしようと、台所へ歩いていった。姉は鍋の前に立っていた。背中が、こちらを向いていた。お玉を持つ手が、ゆっくり動いている。メイリンは、その背中を、しばらく見ていた。そして、やめた。
昼、コンビニに寄った。おにぎりとお茶をレジに置く。「ポイントカードはお持ちですか」。半年前なら、あの券売機の前で「すみません」しか出なかったように、頭の中で一度、止まっていた。今日は止まらなかった。「ないです」。
店員が、商品を袋に入れようと手を伸ばした。「袋はいりません」。考える前に、出ていた。店員は「かしこまりました」と言って、おにぎりとお茶を、そのまま手渡した。財布をしまいながら、メイリンは少しだけ、立ち止まった。
夜、日本語学校の作文の宿題があった。「半年で、変わったこと」。メイリンはペンを持って、夢のことを書こうとして、やめた。「ありがとう」と言えた夢のことは、まだ言葉にならなかった。「今日、袋はいりませんと言いました」とだけ書いて、ペンを置いた。
朝の台所を、もう一度思い出した。姉の背中。お玉を持つ手。あの背中に、夢の話はしなかった。味噌汁の匂いだけが、まだ部屋に残っていた。