メイリン(リンメイファの妹、22歳、台湾出身)
朝の光がカーテン越しに、薄く部屋に差し込んでいた。来日から半年が過ぎていた。その朝、メイリンは夢の途中で目を覚ました。夢の中で、自分は日本語を話していた。
夢の中のメイリンは、改札の前に立っていた。半年前の目黒の改札とは違う、どこの駅ともつかない改札だった。自動改札機にICカードを当てると、扉が開いた。その向こうで、誰かが切符を落とした。メイリンはそれを拾って、差し出した。そのとき、口から出た言葉は「すみません」ではなかった。「ありがとうございます」と、夢の中の自分は言っていた。
目が覚めて、しばらく天井を見ていた。なぜ「ありがとう」だったのだろう、と考えた。半年前の改札で、切符を掴んだとき、自分は「すみません」と呟いた。あのときは、それしか出てこなかった。夢の中の自分は、もう、そこにいなかったのかもしれない。
台所のほうから、味噌汁の匂いがした。姉のメイファが、もう起きていた。台北の家の朝は、こんな匂いではなかった。豆乳と、油条と、母の淹れるお茶。味噌の匂いは、半年かけて、少しずつメイリンの朝になっていった。
起き上がって、姉に夢の話をしようと思った。台所へ歩いていくと、姉は鍋の前に立っていた。背中が、こちらを向いていた。お玉を持つ手が、ゆっくりと動いている。メイリンは、その背中を、しばらく見ていた。そして、夢の話は、やめた。
その日の昼、コンビニに寄った。おにぎりとお茶をレジに置いた。店員が「ポイントカードはお持ちですか」と訊いた。半年前なら、頭の中で一度、言葉を組み立てていた。台湾語から、日本語へ。今朝は、組み立てなかった。「ないです」と、すぐに言えた。
店員が、商品を袋に入れようとした。そのとき、メイリンの口から、考えるより先に言葉が出た。「袋はいりません」。それは、翻訳ではなかった。頭の中で台湾語が先に立つこともなく、ただ、そのまま出てきた。店員は「かしこまりました」と言って、おにぎりとお茶を、そのまま手渡した。
夜、日本語学校の作文の宿題をした。「半年で、変わったこと」というテーマだった。メイリンは、夢のことを書こうとして、ペンを止めた。夢の中で「ありがとう」と言えたこと。それを、どう書けばいいのか、わからなかった。結局、「袋はいりません」と書けたことだけを、短く書いた。
夢の中の日本語が、私を新しい私にしてくれたのだと思う。あの朝、味噌汁の匂いの中で、私はもう、半年前の私ではなかった。言葉は、翻訳するものから、そのまま出てくるものへと、静かに変わっていったのかもしれない。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。