廃番の、棚
もう来ないと決まった商品の、最後の一個

ミブカレン(24歳・100円ショップの品出し6年)

商品は静かに消える。爆発も閉店セールもない。本部からの連絡はいつも一行で、「下記商品、次回より供給終了」とだけ書いてある。下に品番が並ぶ。私はそれを読んで、該当の棚へ行く。窓の外はいつも通りで、売り場には冷たい蛍光灯の光が静かに満ちていて、世界はその一行を知らない。

廃番というのは、その日から在庫が来なくなる、というだけのことだ。だから棚の最後の在庫が売り切れたら、その商品はもう、この世界のどこにもない。正確には倉庫のどこかに残っているのかもしれないが、少なくとも私の店には、もう来ない。最後の一個が売れた瞬間が、その商品の最後の日だ。

定番が廃番になることがある。数年に一度、惜しまれながら消えていく名品がある。「あれ、もうないんですか」と聞かれる。「あれ」を当てるのが私の仕事だが、廃番の「あれ」だけは、当てたところで棚を指せない。指す先が、もうないからだ。私は番地を覚えている人間なのに、番地ごと消えた商品のことを、いちばんよく覚えている。

廃番を知っている常連は、買い溜めをする。どこで聞きつけるのか、終了の紙が来た翌週には、その商品のフェイスがごっそり空く。一人で十個、十五個と買っていく。レジを通しながら、この人は半年分を今日抱えて帰るのだな、と思う。買い溜めは、その人なりの、消える商品への小さな抵抗なのかもしれない。

たいていの商品には、後継品が出る。同じに見える。けれど「ちょっと違う」。台所のスポンジなら、研磨面の硬さがほんの少し変わる。掃除ブラシなら、持ち手の角度が数度だけ起きる。並べて見ても分からない。けれど、毎日それを握っていた人の手だけが、その差を知っている。後継品を手に取った常連が、しばらく黙って、それからそっと棚に戻すのを、私は何度か見た。

棚の空きは、許されない。廃番品のフェイスが空くと、売り場は驚くほど速く、それを別の商品で埋める。翌朝にはもう、昨日まで歯ブラシだった場所に、別の歯ブラシが整然と並んでいる。小売の棚は、空白という余白を持たない。消えた商品の痕は、一日で消える。痕が消えることのほうが、商品が消えることよりも速い。

最後の一個を買う客に、「これで最後ですよ」と言うべきか、私はいつも迷う。言えば、その人は買い溜められなかったことを悔やむかもしれない。言わなければ、次に来たときの空の棚で、その人は静かに驚くことになる。どちらが親切なのか、6年たっても分からない。たいていは、言わずにレジを打つ。

私にも、惜しんだ廃番のリストがある。一番は、ある台所スポンジだ。三個まとめて私物で買った。へたるのが遅くて、泡切れがよくて、それでいて百円だった。最後の一個を握ったとき、後継品の研磨面が、ほんの少し硬いのを、私はもう知っていた。だから三個買った。なくなる前に。

商品は静かに消えていく。けれどその一個一個に、誰かの「あれ」が結びついていた。百円の商品にも、一生があるのだ。生まれて、棚に並んで、誰かの手に選ばれて、そして静かに廃番になる。私は今日も、その最後の日に立ち会う番地の番人として、棚の前に立っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。