ミコシバトワ(27歳・川下りの船頭5年)
今年の冬、私は新人の竿の練習を見る側に回った。五年目だ。見習いだった私を後ろに立たせた師匠が、いまは私の隣に座って、何も言わずに新人を見ている。客の来ない季節の舟着き場で、客を乗せない舟の後ろに、二十歳そこそこの新人が立っている。
冬は、舟を陸に上げる。十一月で紅葉の客が引けると、舟着き場の脇のトタン屋根の舟小屋に、夏じゅう川に浮いていた舟を寝かせる。まず舟底を見る。指で撫でていくと、夏に岩で擦った傷が手のひらに引っかかる。今年は中ほどの瀬の右岸に、長さ二寸ほどの裂けがあった。渇水の長かった年だ。水が少ないと舟は浅い瀬で底をこする。傷は、その年の水位を彫り込んだ記録だ。
傷の深いところは、古い板を鑿で外して、同じ寸法に削った杉板を当てる。板と板のあいだの隙間に、シール材を打ち込む。師匠はそれを握りながら、いつも「昔はこうじゃなかった」と言う。木の繊維を木槌で打ち込んでいた頃の手つきを、私の手に握らせて、こう、と力の向きだけを教える。私はまだ、その昔の道具を握ったことがない。
舟の次は、竿だ。竿は竹でできていて、何年も突くと節に細い割れが入る。竹のいちばん丈夫なところが、いちばん先に傷む。冬のあいだに一本ずつ立てて、節を順に指でなぞる。割れの進んだ竿は替える。竿屋から、切り出したばかりの竹を一本もらう。
新しい竿は、硬い。使い込んだ竿は、突くたびに先がわずかにしなって、底の石にやわらかく食い込む。新しい竿はしならない。突くと、力がまっすぐ手に跳ね返ってくる。最初の一月は、手のひらが慣れない。竿が川を覚えていないのではない。私の手が、新しい竿をまだ覚えていない。
冬にも舟を出す日はある。こたつ舟だ。舟の真ん中にこたつを据え、毛布をかけて、客は足を入れて温まりながら下る。航路は夏の半分。瀬の険しいところは通らず、淵のおだやかなところだけを回って戻る。客は二人か三人。竿を突く回数も、夏の半分だ。聞こえるのは竿が水を切る音と、鴨の声だけ。川鵜が淵の真ん中の杭にとまって、羽を干している。
冬の川は、底まで透ける。雨が少なく水量が落ちて、濁りが沈むからだ。こたつ舟で淵をのぞくと、夏には見えなかった川底の石が一つひとつ見える。中ほどの瀬を回り込むあたりで、底に白く欠けた岩肌があった。夏に、私の舟底が二寸を擦った相手だ。水の上から、自分のつけた傷の片割れを見下ろしている。客はこたつで足を温めていて、底の石は見ていない。
舟と竿の手入れのあいまに、別の仕事もする。川べりの木を間引き、増水で倒れそうな枝を落とす。観光協会の事務所で、春のチラシを封筒に詰める日もある。封入の手は、竿を突く手より早く疲れる。同じ手なのに、川の上の疲れとは別の場所が痛む。
春の前の研修で、新人が竿を突く。底の石を捉えられず、竿先が何度も空を突く。突いた竿が水に持っていかれて、新人は片膝を舟べりに打つ。私が見習いの春に打ったのと、同じ膝だ。師匠は何も言わない。私も、まだ何も言わない。新人の竿がまた一度、空を突いて、川の上で乾いた音を立てた。