モロホシナナ(30歳・左官職人8年)
壁を、鏝で平らにする仕事をしている。モルタルや漆喰を塗り、均し、仕上げる。八年やってきて、いまでは練り舟を見れば水が足りないか多いかが分かるようになったけれど、最初の年は、自分が何を見ればいいのかさえ分かっていなかった。職人の魂は壁に宿る、とよく言われる。たしかに仕上げた壁には、その日の自分がそのまま固まって残るのだと思う。
左官の鏝には、種類がある。荒塗りの鏝、仕上げの鏝、角を納めるための小さな鏝。荒塗りは下地に材料を押しつけるための、厚くて丈夫なもの。仕上げは薄くてしなる、神経のような一枚。同じ「鏝」と呼ばれていても、握った重さがまるで違う。どの鏝をいつ持つか、それを体が覚えるまでに、ずいぶん時間がかかったように思う。
材料は生き物だ。セメントに砂と水を混ぜて練るのだけれど、水の量がほんの少し違うだけで、鏝へのつき方が変わる。多ければ垂れ、少なければ引きずる。しかもこれが季節で変わる。夏は乾きが速くて、練ってから塗り終えるまでの時間が短い。冬はゆっくり待ってくれる。だから昼飯をいつ食べるかは、私ではなく壁が決める。腹が減っても、乾きはじめた面は待ってくれない。
2018年、二十二歳で左官会社に入った。女性は、現場にほとんどいなかった。最初の年のことは、いろいろあったけれど、ここには書かない。とにかく私は、誰よりも早く現場に来て、誰よりも遅くまで鏝を握っていた。手が荒れて、爪が欠けて、それでも壁の前に立つのが嫌ではなかった。
ある日、仕上げた壁を親方に見てもらった。我ながら、きれいに平らに塗れたと思っていた。目で見るかぎり、波一つない。親方は壁をちらりと見て、何も言わずに、持っていた作業灯を壁の横に持っていった。斜めから、光を当てた。
そうしたら、波が出た。さっきまで平らに見えていた面に、影が走った。鏝のつぎ目が、薄い段になって浮かび上がった。自分では平らに塗ったつもりの場所に、いくつもの影があった。親方は言った。「壁を見るな。光を見ろ。壁の平らは、光が教えてくれる」。私は、自分の目を初めて疑った瞬間だったのかもしれない。
それからは、壁ではなく、光を見るようになった。仕上げのとき、わざと斜めから光を当てて、影が消えるまで鏝を当てる。角は、いちばん影が出る。だから角の鏝は、いちばん最後まで握っている。乾く前の、ほんの数十分。その間に影を消しきれるかどうかで、その壁が何十年残るかが決まる。やり直しはきかない。固まってしまえば、もうそこは動かせない。
仕上げた壁には、私の名前は残らない。誰がこの壁を塗ったかなんて、住む人は知らないまま、何十年もそこで暮らす。でも、光を斜めから当てれば、腕は分かる。影が出るか、出ないか。それだけで、その日の職人が真剣だったかどうかが、壁に刻まれている。職人の魂は、たしかに壁に宿るのだ。
あれから八年、私はずっと、光と影の観察者になった。平らとは、目に平らに見えることではなく、光に平らだと許されることなのだと、いまでは思う。あの斜めの光が、私をいまの私にしてくれた。今日も現場で、私は壁ではなく、光を見ている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。