ムカイダソウマ(38歳・自動ドアの修理工16年)
自動ドアを直す仕事を十六年続けている。街の入口で人々を迎え続けるあの装置を、誰もが一日に何度も通り、そして誰も見ていない。直すのはガラスとモーターとセンサーだが、現場でいちばん長く眺めているのは、ドアではなく人のほうだ。
二〇一〇年、二十二歳のとき、自動ドアの保守会社に入った。最初に覚えたのは道具の名前だった。検知範囲を測るための物差し、ベルトの張りを見るゲージ、戸袋のレールを掃くための細いブラシ。先輩は工具をひとつずつ手に取らせて、これは何のためにあるか言ってみろ、と訊いた。答えられないと、次の現場には連れていってもらえなかったように思う。
「開かない」という通報は、いちばん多い。駆けつけると、たいていドアの前に人がいる。そして人の動きは、不思議なほど決まっている。一歩下がって、もう一度近づく。それでも開かないと、手を振る。最後に、隣に並んだ人と顔を見合わせる。自分が悪いのか、ドアが悪いのか、確かめるように。
自動ドアというのは、「自分が開けている」という人間の無意識を、一瞬で暴く装置なのだと思う。ふだん人は、ドアは自分の意思で開くものだと、どこかで信じている。近づけば開く。それが当たり前すぎて、開かないと、まず自分の歩き方を疑う。下がって、近づいて、手を振る。あれは、消えた魔法を取り戻そうとする動作なのかもしれない。
入って間もない頃、先輩に言われた言葉がある。センサーの調整をしている横で、先輩はこう言った。「直すのはドアだ。だがセンサーが見てるのは人だ」。当時はよく分からなかったような気がする。けれど現場を重ねるうち、その意味が少しずつ分かってきた。誤作動の原因は、たいてい人ではなく、人のまわりにある。雨のしぶき、ガラスの反射、入口に立てたのぼり旗の揺れ。強風の日に「勝手に開く」という苦情が来るのも、センサーが風で揺れる何かを人だと見てしまうからだ。
直している間は、ドアを止める。半分開いたまま固定して、その横に立つ。通る人に「こちらからどうぞ」と片開きの隙間を手で示す。あの時間が、私は嫌いではなかった。ふだんは誰も意識しないドアが、止まったとたんに、人の流れの中心になる。みんな私の手のほうを見て、会釈して、通っていく。ドアが働いているときには、誰もドアを見ない。ドアが止まったときだけ、人はそこに人がいることに気づく。
人感センサーの調整は、店ごとに注文が違う。早めに開けたい店がある。客を待たせたくない、入りやすいほうがいい、と。逆に、冷気を逃したくないから、ぎりぎりまで開けたくないという店もある。検知範囲を数センチ動かし、開閉速度の設定を一段変えるだけで、「開くタイミング」が変わる。同じ機械なのに、店の気持ちの分だけ、ドアの性格が変わっていく。点検が終わると、隅に小さなステッカーを貼る。次に来る誰かのための、日付だけの伝言。
あれから十六年、私はドアの前の人の観察者になった。下がって近づく人、手を振る人、顔を見合わせる人。何千回見ても、人は同じことをする。そして同じだからこそ、たまに違うことをする人が、よく見える。結局のところ、ドアの前の人間が、俺をいまの俺にしてくれたのだと思う。今日もどこかで、誰かが開かないドアの前で一歩下がっている。そのために私は、見えないセンサーの範囲を、そっと測りに行く。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。