定休日の、缶
休みの日に、いちばん働くのは釜場である

ムロフシガク(58歳・銭湯のボイラー技士35年)

週に一度の定休日は、休みではない。湯を止めた釜と配管に、手を入れる日だ。客の入る日は釜場が黙って湯を送り続けるが、客のいない日は、私が釜の内側に入っていく。誰も見ない仕事の、さらに誰も見ない一日だ。

湯を抜いた浴場に立つと、自分の足音がやけに高く返ってくる。湯気もなく、波もなく、客の声もない。タイルがどこまでも乾いて白い。三十五年通った場所なのに、湯のない浴場は知らない部屋のようで、私はいつもしばらく、その静けさの中に立ち尽くしてしまう。

缶の点検口を開け、内側を覗く。一週間ぶんの湯が残した湯垢が、白く層になってこびりついている。私はこの湯垢を見るのが、嫌いではない。垢の付き方には癖が出る。底に厚く付けば焚きが強く回りすぎた週、縁に偏れば水の入りに片寄りがあった週だ。湯垢は、私の一週間の焚き方の通信簿のようなものなのかもしれない。

近頃、その湯垢の育ちが、昔より速い気がする。水道の元水が、年ごとに少しずつ変わっているのだ。硬さが増せば垢は早く厚くなる。役所は水質の数字を出すが、私はそんな紙を見なくても、缶の内側を撫でれば、今年の水が去年とどう違うか、指の腹で分かるように思う。湯垢は、水の履歴書だ。

配管の継ぎ手は、一つずつレンチをかけて増し締めする。湯と水の通る道は、一週間で必ずどこかが緩む。締めすぎれば次に外せなくなり、緩ければ漏れる。手の感覚で、あと八分の一回転、と決める。三十五年で覚えたのは、この「あと少し」の止めどころだ。数字では書けない。

浴場側の循環口のフィルターを外すと、髪の毛と垢が網に絡んでいる。客が湯に沈めていった、一週間ぶんの体だ。これを洗い、また嵌める。缶の内側の手入れと、業者の年次点検とは線が引いてある。圧力容器の本体や安全弁の整備は、資格と道具のいる仕事で、私の手には負えない。業者の点検記録の綴りが、釜場の棚に積んである。私がやるのは、その間を毎週つなぐ手入れだ。

夕方、湯を張り直し、試運転をする。明日の一番風呂から逆算して、何時に火を入れれば朝に間に合うかを決める。圧力計の針がゆっくり上がっていくのを見ていると、止まっていた釜場に、また脈が戻ってくるようだ。休みの日が、いちばん長く釜場にいる日になる。その矛盾に、もう三十五年、慣れてしまった。

空の浴槽の底に立って天井を見上げると、湯のある日には決して見えない角度から、この建物が見える。客が見るのは湯のある浴場で、私が見るのは湯のない浴場だ。考えてみれば、休みの日に働く釜場こそが、銭湯の心臓なのだ。脈は、客のいない日にこそ打っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。