他人のオフィスの、水槽(第二稿)
メンテ業一年目、立ち止まる人の観察者になるまで

ムロイカズキ(33歳・水槽メンテナンス業9年)

他人の会社の水槽だけを掃除して九年になる。自分の水槽は持っていない。月二回、受付やロビーのリース水槽を巡る。スクレーパーでコケを落とし、試薬でアンモニアと亜硝酸を測り、ろ過材を交換し、減った魚があれば同じ種を足す。魚を足すときは伝票に「補充」とだけ書く。前にいた個体に名前があったかどうかは、伝票に書く欄がない。

私が読めるのは、前回からの変化だけだ。現場に居るのは月に二度、それぞれ二十分。だから人が水槽の前で何をしているかは、痕跡でしか知らない。餌の食い残しがいつもより多ければ、誰かが手で足したということ。ガラスの下のほうに小さな手の跡が三つ並んでいれば、子どもを連れてくる日があったということ。私は水の中の数値を直しに行って、水の外の痕跡を読んで帰る。

初めて一人で巡回を任されたのは、二〇一七年の春だった。三軒目の会社で、昼休みに社員が一人、水槽の前に立っていた。私が網とバケツを持って近づくと、彼は場所を空けて、言った。「この魚、名前あるんですか」。

リース水槽の魚に名前はない。カクレクマノミが二匹、デバスズメダイが数匹、底にプレコ。会社が選んだのではなく、標準構成として入っている個体だ。私は「いえ、特には」と答えた。彼は笑って言った。「うちの部署では、あのオレンジのを課長って呼んでるんですよ」。私はその数日前の伝票を思い出していた。前の巡回で、弱ったカクレクマノミを一匹引き上げ、同じ種を一匹足していた。彼が課長と呼んでいるオレンジは、たぶん先週入れた別の個体だった。私は黙っていた。補充に、名前を引き継ぐ欄はない。

その日から、巡回のたびに痕跡が増えた。残業の多い会社は、夜のあいだに餌をやられて食い残しが浮いている。受付が無人になった会社は、水位が前回より下がっていて、補充に来る人がいなくなったとわかる。私は水の中の二十六度を守りに行って、水の外で誰が立ち止まったかを、水位と食い残しから逆算するようになった。

引き上げる日もある。契約終了、移転、倒産。倒産した会社のフロアに着くと、人のいない床に水槽だけが残り、タイマーが朝と夕に餌を落とし続けていた。誰も見ていない魚が、それを食べていた。私はモーターを止め、ヒーターを抜き、魚を袋に移す。引き上げた魚はリース会社の水槽に戻され、洗われて、次の現場の標準構成に組み込まれる。課長と呼ばれていたかもしれない魚は、別の会社の受付で、別の名前で呼ばれる。あるいは呼ばれない。

九年で掃除した水槽の数は覚えていない。覚えているのは、人が名前をつけた魚を、名前も告げずに何度も入れ替えてきたことだ。「あのオレンジのを課長って呼んでるんですよ」。私はその課長を、もう何匹も、黙って袋に移している。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。