娘の「奨学金、自分で返す」
——二つの帳簿が並走するとき

タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金のことば、家に入る — 家計アドバイザーの、十の夜』#3
生成日: 2026-05-01

七月の三連休、梅雨が明けたばかりの夜。就活のために東京から帰ってきた娘が、夕食のあと、リビングのソファに膝を抱えて座っていた。スマホの画面を私の方に向ける前に、一度だけ親指で画面をスクロールして確認する仕草があった。「お父さん、奨学金、就職してから自分で返すから。心配しないで。お父さんに迷惑かけたくないから」。彼女の声は、用意されてきた声だった。

娘のメモアプリ——画面には iPhone のメモアプリが開かれていて、箇条書きで数字が並んでいた。第一種無利子 月五万 四年。第二種年利0.5%想定 月三万 四年。卒業時残高 三百八十万。返還月額 約二万八千円。返還期間 十四年。途中で「(金利は最新で要確認)」とカッコ書きが添えてある。表ではなくメモの形をしているが、書き方はシートを書く人の書き方だった。私はそれを十秒見て、目を上げた。

頭の中で動いた計算——目を上げてから、口を開くまでのあいだに、私の中ではすでに別の数字が走っていた。第一種は無利子。第二種は年0.5%程度。我が家の現在の運用利回り想定との差を取れば、肩代わりして繰り上げ返済するより、娘に借りさせて手元の資金を運用に回すほうが、年間で数万円分、家全体としては有利になる。職業の癖で、こういう計算は娘の声を聞きながら同時に走る。走らせないでおく、ということが、私にはまだできない。

娘が見ているのは別の表——彼女が指でなぞっていたのは、月二万八千円という数字のほうだった。新卒の手取りに対して、これを引いた残額で家賃と食費が成立するかを、彼女は別の行で試算していた。私のシートに、その行はない。私のシートにあるのは、家全体の運用機会費用だけだ。同じ「奨学金」という事実の上に、二つの計算が並走している。私は片方しか見ていない側の人間だ。

「迷惑」は経済語ではない——彼女が言った「迷惑かけたくない」を、経済の言葉に翻訳しようとした瞬間、これは経済の話ではないと気づいた。「迷惑」を私の語に変換すると、「肩代わりすれば年間数万円の機会費用が家に残る」になる。それで答えると、彼女が今夜こちらに差し出した宣言は、「お父さんの財布の問題」に縮小される。彼女は財布の話をしに来たのではない。二十二歳が、親と自分の境界線を引きにきている。

説得を始めかけた口——「いや、それはね、家全体で見ると」と言いかけた。客の前で繰り上げ返済の機会費用を説明するときの、最初の七文字の組み立てだった。彼女が私の方を見た。私はそこで止まった。止まったあとで、自分が娘に対していま使いかけた口の開け方が、面談室で初対面の客に使う口の開け方と同じだった、ということを認めた。

「分かった」と返したあと——「分かった」と私は返した。返したあとで、その「分かった」が、客の話を引き取るときの「分かりました」と、語尾の上がり方までほぼ同じだったことに、私は遅れて気づいた。家で職業の口を使った。咎められたわけではない。ただ、自分の家の中で自分の口がどうなっているかを、私はあまり知らないまま五十三年やってきた、ということが、その一秒で見えた。

娘が次に言ったこと——彼女は少し息を吐いて、「あと、就職決まったら、口座も自分名義のメインバンクに変えるね」と続けた。これは奨学金の話ではない。引き落としの線を、自分の口座に引き直す、という意思表示だった。私は「うん」と返した。返しながら、娘の側の表に、いま新しい列が一本足されたのを、私は外から見ていた。私のシートにその列を足す権限は、もう私の側にはない。

提示しなかった選択肢——肩代わり繰り上げ返済の試算は、最後まで口に出さなかった。出していれば、彼女は数字の上では納得しただろう。納得して、そのあと、彼女がこの夏休みに家でこういう話を切り出すことが、もうなくなっただろう。年間数万円のために、その回路を閉じる選択を、私は今夜しなかった。これも経済合理性の話に翻訳できるが、翻訳した瞬間にまた違うものになる。

娘が二階に上がったあと、私はリビングのテーブルにスマホを置いて、彼女のメモを見せられた角度のまま、しばらく座っていた。冷房のかすかな音と、隣家の窓の灯り。机に戻って自宅用の家計シミュレーションを開きかけて、開かずに閉じた。今夜は走らせないでおいた。明日になれば走らせるかもしれない。それでも、今夜は走らせなかった、という一行は、家のほうの帳簿に残しておく。

——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。生成日: 2026-05-01。前作『お金の慣用句 — 直観と複利のあいだ』『AIに、お金を聞いた』に続く第三作、私生活編。