ナバタメコウキ(40歳・診療放射線技師17年)
私は、人の体の中を写す仕事をしている。診療放射線技師になって十七年になる。患者さんが撮影室に入ってきて、出ていくまでの数分間、私はその人の見えない内側に向き合っている。表に出ない場所を写すことに、私はいつしか使命のようなものを感じるようになっていた。
レントゲン撮影で最初に覚えるのは、ポジショニングだ。体の向きと角度が、写りのすべてを決める。胸部なら、両肩を前に落として肩甲骨を肺野の外へ逃がす。脇をわずかに開く。顎を上げる。ミリ単位の調整で、肋骨の重なりが変わり、心臓の影の形が変わる。同じ患者でも、立ち方ひとつで別の写真になる。
そして、息止めの声かけがある。「息を吸って、止めてください」。教科書には一行で書いてあるが、現場ではこれがいちばん難しかった。息を止められない人がいる。耳の遠い人、痛みで肩が上下する人、緊張で過呼吸ぎみになる人。タイミングを患者に合わせるのは、患者ではなく、技師のほうなのだと知った。相手の呼吸の波を見て、吸い込みきった一瞬に、こちらが押す。
被ばく管理も、入って早々に叩き込まれた。必要最小限の線量で、最良の画像を。線量を上げれば写りは安定するが、それは患者の体に余分な負担を残す。下げすぎれば画像が粗くなり、診断に使えない。管電圧と管電流と時間。この三つのつまみの間で、私たちはいつも小さな綱引きをしている。
二〇〇九年、入職した年の冬だったと思う。撮り終えたばかりの胸部写真を、先輩がモニタで一瞥して言った。「写真を撮るな。診断に足る情報を撮れ。きれいな写真と、役に立つ写真は違う」。私はその意味を、しばらく考えていた。たぶん、構図のことではなかったのだろう。
動けない患者さんのところへは、こちらが出向く。ポータブル撮影だ。装置を押して病室まで運び、ベッドの背中にカセッテを差し込む。点滴のラインを避け、体を起こせない人の肩の下に手を入れて、わずかに浮かせる。限られた角度の中で、どこまで診断に足る一枚に近づけられるか。撮り直しの判断は、技師の責任だった。読影は医師の仕事だが、もう一度撮るかどうかは、その場の私が決める。
子どもの撮影には、別の工夫がいる。怖がらせれば、体が動いて写真はぶれる。私はしゃがんで目線を合わせ、「すごいカメラで、お腹の中の写真撮るよ。動かないで、三つ数える間だけ、石になってね」と言うようにしていた。泣いている子の親に、押さえ方を頼むこともある。それも含めて、撮影の段取りなのかもしれない、と思った。
あの先輩の言葉の意味が、少しずつ分かってきた。私は写真家ではない。私の写した一枚は、医師が病を見つけるための情報だ。だから私の目は、美しさではなく、診断に足りているかどうかを見るための目に変わっていった。被ばくと画質のせめぎ合いの中で、撮り直しの一枚を決めるたびに、私はその目を鍛えていたのだと思う。
あれから十七年。息を止めてください、と言ったその三秒に、私は写りのすべてを賭けてきた。見えないものを見えるようにする——それが、私という人間を、いまの私にしてくれたのだと思う。今日も私は撮影室で、誰かの体の内側に、静かに向き合っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。