ナバタメコウキ(40歳・診療放射線技師17年)
月に何度か、私は呼び出しの当番に当たる。オンコール——夜間待機だ。病院には泊まらない。自宅にいて、携帯を枕元に置いて、ただ待つ。鳴れば、起きて、走る。当番の夜は、晩酌のグラスを棚に戻す。運転して病院まで行く以上、飲んでいい理由が一つもない。風呂は早い時間に短く済ませる。頭を洗っている最中に鳴れば、濡れたまま出るしかないからだ。
眠る前に、着替えを枕元にたたみ、車のキーを玄関の決まった場所に置く。考えなくても手が動くように、当番の夜は、すべてを定位置に戻して眠る。鳴らないことを願いながら、鳴ったときの段取りだけは、頭の中で並べておく。鳴るかもしれない電話と、同じ部屋で夜を過ごす。これが、当番の夜の暮らし方だ。
その夜は、午前二時を回ったころに鳴った。救急からのCT。「頭部、お願いします」。それだけで起きる。通用口の暗証番号を押し、人気のない廊下を抜けて、CT室の灯りをつける。装置を立ち上げる起動音が、静かな夜にやけに大きく聞こえた。私が来るまでの間、救急では誰かが患者を診て、待っている。呼び出しから撮影開始まで、その時間を、ここから取り返す。
運ばれてきたのは、意識のない患者だった。「息を止めてください」は、通じない。声をかけても、頷きも、息を合わせる返事もない。十七年、私はずっと、相手の胸の上下を見て、吸い込みの頂点の一瞬に合わせて押してきた。あの三秒が、ここでは成立しない。だが頭部のCTは速い。息止めはいらない。要るのは、動かない頭を、ミリ単位で正中に置くことだ。返事のない体に対して、合わせる相手はもういない。秒を取るのは、私一人だ。
ストレッチャーから天板へ、頭を移す。耳のあたりに金属がないか、指で確かめる。ピアス、髪留め——写り込めば、診たい場所に放射状の筋が走る。点滴のラインと心電図のコードは、撮影野に重ならないよう脇へ逃がす。これも、写り込ませないためだ。意識のある人になら頼める一切が、頼めない。代わりに、こちらの手数が増える。動かない体を、動かないまま、診断に足る位置に置く。
夜の現場は、人が少ない。昼なら何人もいる手が、医師と看護師と私の、数えるほどになる。言葉も短い。「行きます」「入りました」「終わりました」。余分な説明はいらない。再構成された画像がモニタに並ぶと、当直医がのぞき込む。出血の有無、その広がり。読影は医師の仕事で、私はそこに立ち入らない。私が渡すのは、判断に足る一式だ。撮って、渡して、帰る。患者がそのあとどうなったかは、知らされなかった。結果の向こう側は、私のいない場所にある。
帰り道、東の空が白みはじめていた。来たときは空っぽだった道に、新聞配達のバイクが走っている。家に着いて、まだ温かい布団に戻る。一時間眠れれば、足りる。そして、呼ばれない夜もある。携帯を握るようにして眠り、朝、画面に着信がないことに気づく。何も起きなかった、という安堵。それと同時に、身構えていた体が行き場を失う。たたんだままの着替えを見て、私は少しだけ、間の抜けた顔をしている。