ナギサヒロコ(54歳・ビル総合受付28年)
入館証のストラップは色で分けてある。来客は青、工事の方は黄、面接にいらした方は白。ロビーを歩く色を見れば、誰がどこに向かっているのか、頭の中の地図にだいたい収まる。二十八年、私はこの色を見て暮らしてきた。
一年目に最初に覚えたのは、来客票だった。お名前、ご所属、面会先。複写式の紙で、二枚目に写らないと控えが残らない。だから筆圧の弱い人には「少し強めにお願いします」と言い添える。書いてもらう三十秒のあいだ、人は思ったより手元に出る。名前を一息で書く人、面会先で手が止まる人。
一九九八年の春、初めて一人で受付に立った。先輩は上のフロアの応援に出ていた。午前十時すぎ、青いストラップ——つまり来客で通すべき男性が入ってきた。来客票を渡すと、男性は名前を書き、面会先の欄で一度ペンを止めた。筆圧は強かった。強すぎて、二枚目の文字が少し滲んでいた。
面会先に内線を入れた。「受付でございます。○○様がお見えです」。担当が降りてくるまで五分ほどと言われ、男性には応接ソファでお待ちいただいた。青いストラップだから、これは商談だ。色はそう言っていた。
だが、その五分のあいだの男性の所作は、商談の色とは違うことを言っていた。鞄から書類を出し、同じページを読み返す。しまう。靴の先を見る。腕時計を見る。読み返し、靴の先、時計。その三拍子が、二度、三度と繰り返された。色は青でも、座っている人は、面接の白に近い緊張をしていた。
担当が降りてきて、男性は立ち上がった。書類を読み返していた手は、握手のときには止まっていた。二人がエレベーターに消え、ソファには誰もいなくなった。私の手元には、滲んだ二枚目の控えだけが残った。
無人受付機が私の隣に並んだのは、それから二十年ほど後だ。先週、機械の前で動けなくなった年配の女性がいた。QRコードを印刷した紙を、表裏どちらに向ければいいのか分からず、二度、三度ひっくり返していた。読み返し、裏返し、また見る。あの三拍子だった。私はカウンターを出て、紙を受け取りに行った。機械にできないのは、ひっくり返す手のほうを見ることだ。
二十八年で取り次いだ人の数は覚えていない。覚えているのは、取り次がれるのを待っていた数分のほうだ。青いストラップで、靴の先を見ていた人。表裏の分からない紙を、三度ひっくり返した人。