中原圭一(なかはら けいいち)。四十三歳、娘二人。若いころに読んだ本をいまも折にふれて開き、文章の読み方の作法を厳しく教わった過去がある。仕事のことは書かない。夏の終わりの祭りの夕方、上の娘の「なんで点がつくの」に答えられなかった一時間から登場。
得意題材:子どもの問いに答えられない場面、点数のつかないもの、分担としての休日、欠けたものを補いたくなる誘惑
声の特徴:長めの文で判断を保留する人。結論を置かず、問いのまま終える
祭りに行こうと言い出したのは私のほうだった。妻は「暑いよ」と言った。実際、暑かった。
都心の通りを車から取り上げて、いくつもの組が並んで踊る、あの大きな祭りである。揃いの衣装で、手には鳴子を持ち、腹に響く音量で、通りの端から端まで踊りながら進む。組の数は百をゆうに超える。上の娘は去年、通りがかりに一度だけ見て、それから一年ずっと「今年も行く」と言っていた。だから連れて行った。下の娘は去年のことを覚えていない。
音は正面から来る。子どもの背丈だと、太鼓の低い方が体の真ん中に当たる。上の娘は最前列に張りついて手拍子まで真似ていたが、下の娘は十五分で無言になり、三十分で私の脚の後ろに回り、四十分で「かえりたい」と言った。抱き上げると、耳を私の肩に押しつけてきた。音を遮る姿勢である。誰にも教わらずに、人間はこれをやる。
そのころ妻が「一時間だけもらっていい」と言った。自分の買い物をしてくる、と。うちで妻が自分のためだけに何かを選ぶ機会は、数えるほどしかない。どうぞ、と言った。五時半に、あの店の前で、と決めて別れた。つまり私に配られたのは一時間である。私が使う一時間ではなく、妻が使う一時間を作るための一時間だ。この二つは同じ長さで、たぶん同じものではない。
上の娘を説得するのに十分かかった。「涼しいところで休もう。休んだらもう一回見よう」。守れないと知りながら、そう約束した。
逃げ込んだのは、本屋にラウンジがくっついた店だった。棚の本はどれでも席に持ち込めて、飲み物は好きなだけ飲める。時間で料金がかかる。四時半だった。あと一時間、と決めた。決めておかないと際限がない。財布の話ではなく、決めておかないと「今日はよくやった」と思える終点が来ないからだ。
席につくなり上の娘が「来年、あれに出たい」と言った。冷やかしではない言い方だった。一年ずっと言い続けてきた子の「出たい」は、こちらが受け取れるかぎり一番強い形で受け取るべきだと思っている。相手の言い分をわざと弱く直してから吟味するのは、議論の作法として最低の部類に入る。だから、出られると思うよ、と答えた。そのうえで、あの祭りには審査があって順位がつくのだと教えた。娘は少し黙って、「点がつくの」と聞いた。つく、と答えた。「なんで点がつくの」と娘は言った。それには答えられなかった。
若いころに読んで、いまも折にふれて開く本がある。書かれているのは、たいてい、何かを定義しようとして失敗する話だ。勇気とは何か、と問い、答えを出し、その答えを検討し、通らないと分かり、また出し直し、最後まで行っても定義は手に入らない。登場人物は行き詰まったまま解散する。
はじめは、未完成な作品だと思っていた。いまは逆に読んでいる。答えを持たせずに読者を帰らせることが、あの書き方の目的なのだと思う。定義を渡してしまえば、読者はそれを覚えて、考えるのをやめる。行き詰まりを渡せば、続きは読者の側で起きる。誰かの頭のなかで続きが起きることを当てにして書かれた本を、私は何年も手元に置いている。
だから、娘の「なんで点がつくの」に答えを出さなかったことを、私はそれほど悔いていない。ほんとうは、答えを持っていないだけである。しかし持っていないものを持っているふりで渡さなかった、という点では、いちおう自分で決めた作法どおりではある。
娘たちが棚から本を選ぶ手つきは、その本に出てくるやり方によく似ている。まず絵のある本とない本に割る。絵のある本を、動物と動物でないものに割る。動物を、こわい動物とこわくない動物に割る。下の娘はそこで「こわいほう」を取った。ワニの本である。しばらくして自分でこわくなり、読むのをやめた。それでも棚には戻さず、膝に載せたままにしていた。上の娘は「こわくないほう」を取ってから、妹の手元をちらちら見ていた。二人とも、自分が何を探していたのかは、選び終わるまで知らない。定義は探索の前ではなく後にできる。私が何年もかけて考えてきたようなことを、この子たちは十五分でやってしまう。
数字については、ひとつ決めていることがある。数えることの強さは、数えられるものについては嘘をつけないという一点にある。弱さも同じところにある。
数字が出たときに、それを結論にしない。数えて分かるのは「この二つは似ていない」までで、なぜ似ていないかは数字の外にある。数えるのは、答えを得るためではなく、問いを立て直すためだ。順位のつく祭りも同じで、点がつくのは揃い方と勢いであって、下の娘が音から逃げたことには点がつかない。点がつかないことを、点の外にあるという理由で無かったことにしはじめると、人は本を読めなくなる。娘の「なんで点がつくの」は、案外いいところを突いている。
この一時間も、時計にとっては六十分である。下の娘が二回トイレに行き、私が三回時計を見た、というところまでは数えられる。読むのをやめたワニの本を膝に載せたままにしていた、というのは、たぶんどんな指標にも乗らない。
もう一つ、ずいぶん前に本の読み方として教わって、いまだに守っていることがある。書かれていないことを足すな、というものだった。文章が途中で欠けていたり、話が通らなくなっていたりすると、意味が通るように言葉を補いたくなる。補えばきれいになる。きれいになった分だけ、それは他人の文章ではなく自分の文章になる。だから、通らないところは通らないまま印をつけて残しておく。要するに、黙っているものを黙らせておく技術である。身につけるのに何年もかかった。
「暇」を意味する古い語が、いまの多くの言語で「学校」を指す語の先祖になっている、という話をどこかで読んだ。暇があるから学べる、という順序である。昔の人たちは、暇こそが人間の最上の活動の場所だと考えたらしい。生活のために働く時間は、暇のための準備にすぎない。
では、いま私が過ごしているこの一時間は暇なのか。妻に一時間を渡すために引き受けた時間だから、これは分担であり、労働に近い。けれども、この六十分のあいだ私は何も生産していない。娘たちが本を選び、こぼし、選び直すのを見ているだけだ。生産していないという一点において、これは古い意味での暇にきわめて近い。労働として引き受けた暇、という妙なものが手のなかにある。それを「家族サービス」の一語で呼ぶとき、私はたぶん、違う二つのものを一語で潰している。定義を急ぐと、いつもこうなる。
五時半ちょうどに会計を頼んだ。下の娘に靴を履かせ、上の娘に鳴子を持たせて出口を出ると、妻がもう立っていた。手には小さい袋が一つだけ。一時間で一つか、と言うと、一時間だと一つだよ、と返ってきた。
四人でそこに立ったところへ、入れちがいに一人で入ってきた人と目が合った。娘の学童で何度か見かけた、誰かの父親だと思う。名前は知らない。向こうも私の名前は知らないだろう。会釈をした。相手も会釈を返して、それで終わりである。連れはいなかった。脇に、書類でも入っていそうな大きい封筒を一つ抱えていた。これから一人であそこに座るらしい。ずいぶん贅沢な時間の使い方だな、と思った。
そこから先は考えなかった。なぜ一人なのか、封筒に何が入っているのか、この時間に何をしに来たのか。想像で埋めれば話は通る。通った分だけ、それはあの人の事情ではなく私の作文になる。書かれていないことを足さない、というのは、本に限った話ではないと思っている。挨拶とは、それ以上を足さないための作法である。
帰り道、上の娘が「さっきのだれ」と聞いた。学童のだれかのお父さん、と答えた。「だれの」と聞かれて、それは知らない、と答えた。娘は「ふうん」と言って、それから、今夜どこかで花火をやる子がいるらしい、という話を始めた。うちは明日から荷物の用意があるから、と私は言った。下の娘は聞いていなかった。買ってやった鳴子を、電車のなかでずっと握っていた。
寝る前に、上の娘がもう一度聞いた。「点がつくのに、なんでみんな出るの」。楽しいからじゃないか、と答えた。娘は納得しない顔で寝た。私も納得していない。答えの出ない問いを抱えたまま解散する、という終わり方を、私は本のなかで何度も読んできた。読んできたからといって、上手にできるわけではない。
——補記:この一篇と 土屋良介の日曜日の夕方 は対になっています。同じ夕方の、重ならない一時間ずつ。二人は入口ですれちがい、会釈だけを交わします。どちらの側にも、相手の事情は最後まで伝わりません。