ナルカミハル(44歳・産業動物の獣医19年)
二〇〇七年、二十五歳で大学を出て、産業動物の診療所に入った。犬や猫ではなく、牛と豚を診る。最初の朝、軽トラの荷台に注射器と輸液と子牛を引き出す縄を積みながら、先輩が言った。「ペットの獣医は飼い主の話を聞く。うちらは牛の顔を見る。牛は嘘もつかないが、説明もしてくれない」。
初めての往診先で、私は聴診器を出そうとした。先輩は出さなかった。牛舎の入口で立ち止まって、四十頭ほどの群れをただ眺めている。一分か、二分か。それから、右手前から三列目の一頭を指して言った。「あれ」。耳標は七二番。ほかの牛が餌箱に首を突っ込んでいる中で、その一頭だけが、首を上げたまま動かなかった。反芻していなかった。
群れがいるから、一頭が分かる。健康な三十九頭が背景になって、残りの一頭の異常を勝手に縁取ってくれる。一頭だけ連れてこられたら、私にはたぶん分からなかった。説明してくれない患者の診察は、その一頭を見るのではなく、ほかの全部を見ることから始まるのだと、このとき体で知った。
その見方を、私より先にやっている人たちがいた。農家だ。「先生、三番がいつもと違う」。どこがどう違うかは言えない。乳の出が半分とか、餌の食いが悪いとか、後から数字はついてくるが、電話の時点では言葉にならない。それでも、毎日その牛の前に立っている人の「いつもと違う」は、たいてい当たっていた。私が入口で二分かけて拾う違和感を、その人は昨日の夕方には感じている。観察は才能ではなく、回数だった。
妊娠鑑定は、腕を肩まで牛の直腸に入れて、壁ごしに子宮を探る。最初の数十頭は、何を触っているのかさえ分からない。便と、腸壁と、骨盤の縁の区別がつかない。目を閉じて、手のひらだけで地図を描く。ある日、ふいに分かった。胎子のいる子宮は、握ると指の腹に重さが返ってくる。手が先に「いる」と言って、頭は後からうなずいた。
その年の秋、初めて自分の口で「治療しない」と言った。乳房炎をこじらせた経産牛で、産歴は六産、乳量はもう落ちていた。抗生剤と点滴を続ければ助かる見込みはあったが、治療費が、その牛がこれから稼ぐ額を超えていた。農家は黙って聞いて、「そうか」と言った。命を数字で割るような気がして、診療車に戻ってから、しばらくエンジンをかけられなかった。けれどそれは、群れ全体を続けていくための線引きだった。私はその数字を、感傷で動かさないことを覚えた。
冬、夜中に難産の電話が鳴った。初めて一人で行かされた。子牛の前肢に縄をかけて引いたが、肢位がおかしく、頭が引っかかって出てこない。一度押し戻して、母牛の腹に手を入れ、首の向きを直した。手が滑って、縄を二度かけ直した。母牛のいきみに合わせて引く。出てきた子牛は、初め動かなかった。鼻に藁を突っ込んで刺激して、しばらくして、ようやく鼻を鳴らした。私は牛舎の壁にもたれて、自分の手がまだ震えているのを見ていた。
あれから十九年。いまも私は牛舎の入口で、まず立ち止まる。聴診器より先に、群れを眺める。七二番のことも、エンジンをかけられなかった夕方のことも、震えていた自分の手のことも、誰にも説明はしない。説明してくれないのは、患者だけではない。