ナルカミハル(44歳・産業動物の獣医19年)
一斉接種の前の晩、私は牛舎の図を頭の中でなぞる。六十頭。どの牛をどの順で枠場に入れ、打った牛を右の通路へ逃がし、まだの牛を左の溜まりに残す。一頭にかける十秒が、六十頭で十分になる。だから動線を決めてから寝る。朝は六時に軽トラを出す。
荷台の車載冷蔵庫を開けて、温度の表示を見る。四度。バイアルの箱に保冷剤を二つ添え、間に新聞紙を一枚挟む。直に触れると凍る。凍ったワクチンは戻しても効かない。夏は逆で、農場と農場の間の三十分、表示が八度を超えないかだけを気にしている。効かない液を六十頭に打つくらいなら、その日は出ないほうがましだ。
農場の入口で、長靴を踏み変える。車に積んだ青い長靴から、農場専用のに履き替え、逆性石鹸のバケツに両足を入れて、ブラシで底の溝の土を掻き出す。前の牧場で口蹄疫の話を聞いた朝は、溝の一本一本を覗き込んで洗った。農場を渡り歩く私が、いちばん速い運び屋になりうる。広げる側にだけはならない。長靴を洗う三分は、そのための三分だ。
枠場に追い込む前に、私は牛の尻に手のひらを当てる。いきなり後ろに立つと蹴る。手を置いて、声を出さずに横へ回る。打つ人と追う人で、大きな声は出さない取り決めにしている。怖い目に遭わせた牛は、次の接種の日、枠場の手前で足を踏ん張って入らない。一度の乱暴が、来年の半日を奪う。だから今日、静かに通す。
ロープで頭を固定し、首の脇に針を立てる。迷わず、ひと息で刺して抜く。注射の上手さは、痛みの短さに尽きる。手間取って針先が動けば、牛はそこを覚える。三番は針を見ただけで首を振る牛で、四七は何をされても反芻をやめない牛だ。三番には二人がかりで、四七には一人で。同じ液を、相手で打ち方を変える。
打ち終えるたび、台帳に書く。耳標の連番、ワクチンの名、ロット番号、今日の日付。出荷の記録に直結するから、ここで番号を取り違えれば、打っていない牛を打ったことにしてしまう。だから牛の顔ではなく、耳標を読んでから針を立てる。手は接種、目は番号。二つを同時にやって、ようやく一頭が終わる。
六十頭目の針を抜いて、針箱の蓋を閉める。さっきまで枠場で足を踏ん張っていた三番も、もう餌箱に首を突っ込んで、ゆっくり顎を動かしている。牛舎じゅうに、ざく、ざく、と咀嚼の音が戻っている。私は車載冷蔵庫の温度をもう一度見て、四度を確かめ、長靴をまた踏み変える。次の牧場の入口にも、別のバケツが待っている。